No.7 テスト法の功罪
テストについて、現場の先生方にうかがってみると、結構頼りにしている人もいらっしゃって、一時期(1980年代〜1990年代初頭)のようにテストを批判する人の数が減ってきたことに気づきます。
三、四年前に、評価基準と評価規準を明確にした年間指導計画を、という文部科学省の声によって、春休みが非常に大変な期間になった年がありました。まだ一部にはその名残がある学校もあり、先生方が苦労されていると聞きます。
一方、基礎学力の低下が指摘されている現在、テスト法が学習の方法にすり替わってテストづけになっているクラスもあると聞きます。
まあ、基本的には、詰め込み教育が批判されるといつも連動してテスト法に対する批判が高まり、学力低下が指摘され始めるとテスト法への信頼が増すように思われて仕方がないのです。
そもそもテスト法とは、前の項で説明した評価過程の中の測定の部分における一つの方法でしかないのですが、テスト法で捉えられた学習実態は点数化されるため、解釈を経ずにそのまま情報化される傾向が強く、点数だけが一人歩きする現象が起きがちです。
ぼく個人としては、マスターからドクターにかけて評価法の研究をしていましたから、テスト法自体の問題よりも、それ自体をどのように利用するかというユーザーの問題が非常に大きい事を指摘します。
また、現在の入試といわれるものの大半が依然としてテスト法によるものが圧倒的に多いことも問題であるといわざるを得ません。
テスト法は、学習者が保有する知識の有無や量的側面にを捉える場合、非常に効果を発揮します。しかし、その反面、理解の深さや能力の質的側面を捉えるのには適していません。
ゆえに総合的、多角的に学習者の能力を捉えていこうとすれば、他の方法と適切に組み合わせながら用い、明確な情報利用の目的を持って、点数を情報化していかなければならないということです。
実際には現場の先生方は忙しいのでどうしてもそういった情報化の手間を省いてしまいがちですが、これが誤った用い方であるということは否定できません。
テスト法がもたらす、点数化された情報を、利用するのは主に教師と学習者です。特に学習者は最初から利用する方法や目的を知りませんから、その指導が必要となります。さらにもっとやっかいなのは彼らの保護者もその利用法を知りません。中学生くらいからは、そういった指導を保護者と生徒両者に施していく必要があるといえます。
例えば、80点はいい点かどうかといえば、それはこの段階では全く分かりません。平均点が95点だったら悪い点でしょうし、25点だったらずば抜けてよい点でしょう。じゃあ、順位と平均点を添えればよいかというとどうでしょうか。
私は愛媛の田舎で育ちましたから、都会のよくできるこの学校の中では勝負できないよとよく先生にいわれました。点数を解釈する規準が相対的である場合、どこまでも母集団の質という問題が残ります。
いつも間接的な心理描写を読むところが間違っているとか、いつも根拠を明示できていないとかいった能力そのものが身についたかどうかという絶対的な解釈の工夫がほどこされて初めて、学習者にとって有効な情報となりうるのです。
テスト法は、利用者の用い方が問題なのであって、方法そのものが問題なのではないのです。適切な範囲の能力を効果的に捉える有効性の高い方法とさえ言えます。もし、テスト法自体をなくしてしまったら、どうやって客観的な判断を下せばよいのでしょうか。また古い時代に逆戻りして、門地や身分、社会的地位や収入などで評価をするようになってしまいます。
テスト
参考図書
無責任なテストが「落ちこぼれ」を作る―正しい問題作成への英語授業学的アプローチ (英語教師叢書)
若林俊輔 出版社: 大修館書店 (1993/03)
ジェームス・ブラウン 出版社: 大修館書店 (1999/02)
日本テスト学会 出版社: 金子書房 (2010/04)