No.13 正統的周辺参加

 知識注入型の授業形態から脱却しようとする試みは、1980年代くらいから盛んに試行錯誤された。情意的領域を重視した学習活動を組織したり、対話的な授業を試みたり、様々な悪戦苦闘が繰り返されたように思う。
 90年代初頭にレイブとウェンガーが『状況に埋め込まれた学習』という著書の中で主張したのが「正統的周辺参加」という学習の形態である。
 佐伯さんの訳出したこの本をちょうど博士論文を書いていた私はすごく読んだ記憶がある。当時私は、言語能力の完成期を、状況に応じて効果的な運用ができる力であると見定め、その運用力なるものを学習するための方法を模索していた。
 手紙の書き方などを思い浮かべればよく分かるように、学校での学習は、日常生活の中の文脈を抜いて一般化されたことを教える。手紙の書き方も最も一般化された書き方を教えるので、日常生活の中で手紙を書こうとすると、もう一度学んだことを応用していかなければならない。この煩わしさや難しさ故に、社会人の言語能力は低いのであろうと考えたのである。

 
状況判断力や運用力を身につけなければ、いくら一般化された言語能力を身につけても、日常生活の中では使うことができない。

 そんな中で、この「正統的周辺参加」という考え方は新鮮に思えた。基本的には徒弟制の中の学びをモデルにしているこの考え方は、簡単に言えば、部活の論理に近いと言える。
 入部した手の新入部員は、練習を見ているだけのことが多くちょっとずつ、練習に参加していく。この練習にちょっとずつ参加していくプロセスが「正統的周辺参加」なのだ。
 新入部員も半年位すると、ちょっとずつ練習の目的や方法を見て学び、実際に失敗を繰り返しながら参加していけるようになる。状況判断や実際の経験を積むことで、次第に練習に正式に参加することができるようになる。
 これを学習として学校の勉強に生かせないかというのが、この理論なのである。

 今でもこの理論を真剣に考えている人はいるようだけれども、すでに限界は見えている。まず、熟練した母集団をどうやって学級に持ち込むのかという問題がある。当初は、学校を開いていく流れと連動して学校外の熟練集団を招いたりして学習者をそこに参加さえるようなこともしていたが、学校の学習内容全てに熟練した母集団が存在するわけではない。
 この問題は非常に大きかった。上の学年の中に複式授業のように参加させることも考えたが、上の学年の学習が維持できないので難しい。
 また、具体的に部活動なんかでは、自分のやりたいことに参加するわけだから、参加の動機付けは必要ない。しかしやりたくもないことに対してコミュニケーションギャップを乗り越えながら参加することを学習者に望むことは難しい。

 だから、最近は私は特にこの考え方を支持していないのだが、この考え方がもたらしたものとして、「集団で共有する学力」があるのだということを意識することができた。
 切って捨てるような言い方だが、一部の社会参加型の学習をのぞけば現実的には難しいのではないだろうか。


正統的周辺参加

状況に埋め込まれた学習―正統的周辺参加

  • 著者:J.Lave & E.Wenger 
  • 出版社: 産業図書 (1993/11)
  • ISBN-10: 4782800843

ワークショップと学び1 まなびを学ぶ

著者:苅宿俊文

  • 出版社: 東京大学出版会 (2012/4/28)
  • ISBN-10: 413053081X

 

参考図書

デザインド・リアリティ―半径300メートルの文化心理学  

                              有元典文   出版社: 北樹出版 (2008/12) 

                             

「未来の学び」をデザインする―空間・活動・共同体  

                          美馬のゆり  出版社: 東京大学出版会 (2005/04)

         

効果10倍の(学び)の技法 シンプルな方法で学校が変わる! (PHP新書)

                             吉田新一郎   出版社: PHP研究所 (2007/4/17)

 



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