No.1 「陶冶」と「訓育」
学習者と教師との関係を「教授=学習」過程として捉えることは、授業の中で進められている活動の二つの側面を等価に捉えることを意味している。
教授過程は、「教える教師」と「教えられる学習者」の関係であり、学習過程は、「主体的に学ぶ学習者」と「サポートする教師」の関係である。
こう考えてみると、問題になるのは、教師の指導性がどこまで必要かということ。
カリキュラムを計画するのはやっぱり教師じゃないとだめだけど、実際には教科書がその役割を大きく担っているのが現状。こういったことに対して自分で年間計画を立てて日々の授業を実践している教師は、「発達観」と「学力観」をしっかり持っている人だと思う。
社会学が学校の権威性を指摘し始めてから急速に現場の教師はその指導性を発揮することをタブー視するようになってきた。体罰などの間違った指導性の発揮が問題視されるようになったこととも連動して、教師の指導性は、学習者の主体的な学びをサポートする役割になってきた。まず、ここが問題。
子供は自分で学びたいという欲求を持っていると信じたい。でも、実際はその欲求を発揮させてやる存在なしでは難しい。同じ意味で、大人の私たちには非常に必要だと思えることも、子どもたちにはその必要感が理解できないので、子どもたちの生活の中で必要なことだけ学ぶ、なんてことはやっぱりおかしいと思う。
そこで、限られた時間の中で、現在必要なことも、将来必要なことも、主体的に学ぶ意欲を喚起しながら、子どもたちを学習へと導く存在が教師であるといえる。
つまり、
何を教えるか、そして何を学ばせるか、ということに対して深い理解がなければ子どもたちを学習へと導いていくことは出来ないということなのです。
定義から先にはいると
陶冶・・・人類の経験、科学的知識、精神的身体的能力などを形成する側面
訓育・・・人格の欲求と志向、行動能力、感情と性格特性を形成する側面
となるんだけど、簡単に言うと、知識や技能を身につけさせることと、人格形成ということになるんかな。で、問題なのは訓育のほうなんだけど、訓育は、教科の学習を通して間接的に行う場合と、道徳や特別活動などで行う場合とがある。
陶冶=授業、訓育=教科外と捉える考え方は否定されるのは、やっぱり授業でも、協力したり尊敬したり感動したりする学習を構想したいし、特別活動などでも、教科の専門性みたいなものとリンクさせる方がおもしろさが増すというもの。
つまり、結論から言えば、陶冶と訓育は学校生活の様々な場面でリンクさせて行われるべきもので、教師はこの二つの側面への目配りをしながら、それぞれの活動を豊かなものにしていかなければならない。
実際に書いたり話したりしないと行けない場合は、具体的な学習場面を提示して、陶冶の側面と訓育の側面をそれぞれ指摘し、それを融合もしくは関係づけた学習案を構想してみることだろう。
吉本均先生の本
- 著者:吉本均
- 出版社: 明治図書出版 (2006/11)
- ISBN-10: 418150610X
- ISBN-13: 978-4181506100
著者 吉本均
- 出版社: 明治図書出版 (2006/11)
- ISBN-10: 4181507149
- ISBN-13: 978-4181507145
参考図書
教育と陶冶の理論 (1963年) 小川太郎 出版社: 明治図書出版 (1963) ASIN: B000JAIZD
陶冶と訓育の統一―現代教科論の活動理論的研究 歓喜隆司 出版社: 風間書房 (1997/3/15)
ISBN-10: 4759910220
特別活動と人間形成 山口満 出版社: 学文社; 改訂新版 (2010/04) ISBN-10: 4762020869