教材について

 ルポルタージュを読む学習として組織するのか、調べ学習などを展開して平和教材として読ませるのか迷うところだが、内容面を配慮して両方の要素を残しつつも、ものの価値や意味を見出すという認識方法の学習に持っていきたい。

ルポルタージュというジャンルを意識すると

 この教材は説明文として位置づけるよりもむしろ、ルポルタージュとして位置づけたい。中学校教材の中にはこのようなルポルタージュを扱ったものがいくつかあるが、その際の特徴として、

  1. 書き手に焦点を当てた学習が可能であること
  2. 取材などで事実を解説しつつも書き手の考えや意見の表明が鮮明であるもの。

 が挙げられる。  

 中学校になってこういった教材を読み解いていく際の基礎的経験として軽くではあるがルポルタージュというものを意識した読み方を学習させる機会としたい。  

 現在の原爆ドームは個人的には形骸化しつつあるように思うが、それは、原爆ドームの持つ歴史性が忘れ去られようとしているからではなく、戦争という一つの悲惨な状況を客観的に見ることができるほど私たちはもう平和な時代に生きていないことを意味しているのかもしれない。 しかしながらこの教材は、現在の原爆ドームを出発点にして歴史的経緯を取材し、その経緯を説明しながらも最終的に平和のとりでとして位置づけるに至る。こういう文章の展開がすでにルポルタージュ的であることはいうまでもないが、現存する断片を出発点にしてその全体像を空間的にも時間的にも再構築しようとする文章がルポルタージュであるといってもよい。ゆえに、書き手の中に、語ろうとするものそのものへの強い思いがあり、断片的なものを再構築することのなかに意味を見出しており、かつ、それが誰にでも調べ得る情報から、書き手個人が努力の末に見出してきた情報まで様々な情報の集合体であるのである。  

 つまり、この教材に書かれてある内容の理解に終始するのではなく、この教材がいかにして作り出されたか、なぜこの文章が書かれなければならなかったのかということを、書き手個人の思いだけでなく、現代社会の中にこのような文章が提示されることの意味にまで考えを及ぼすような読みの学習を構想したい。

ものの価値や意味を表現すること

 原爆ドーム=平和のとりでという関係がこの教材の中心点であると考えるとこの教材は現在廣島にある原爆ドームという建物に向き合い、その中に一つの意味を見出すプロセスを文章化したものであると捉えることができよう。この点に目を向けた学習を組織しようとすると、この結びつき自体に目を向けさせ、なぜ原爆ドームが平和の砦なのかという理由を文章から考えさせたり現代社会の中での意味を考えたりする学習が一つある。  そういう学習は無意識のうちにこういった教材では仕掛けてしまうのだがそれは社会科の学習や平和学習の扱いだと思う。  国語科としては、やはり原爆ドームに向き合った書き手が、どのようなプロセスでこれを平和のとりでと意味づけるに至ったかという点を文章を読みながら明らかにしていく学習が必要ではないだろうか。

表現学習としても

 ルポルタージュから学ぶことの一つにその取材力がある。自分の意見を表明するためにどのような情報を集め、どのようにまとめていくかという点を学ぶモデル教材として扱うことができる。教科書の中にも記されているが、この教材の中でどのように書き手が情報を集め、どのような情報を求め、どのように文章として表現したかという点をしっかり押さえた上で言語活動に入らなければ、なかなか学習者の意見表明の質は向上しない。