教材について

 「船」の方は、ダイナミックな認識が斬新だし、「りんご」の方はミクロで凝縮された認識が深さを出している。比べ読みでもしようかなあと考えたりもする配列なのだが、認識のあり方に焦点を当ててみてももう一つ二つ、他の詩を必要とする。  

 そこで個々に読解をしながら、詩を集めさせて紹介させるような発展学習を仕掛けてみることも考えたが、逆に出発点として時代も違うこの二つの詩をどうつないでみようかというところで行き詰まってしまった。 音読して読みが深まる詩でもないし、ぐっと内容に迫りたいので、学習者に学習したい方を選ばせてみるような導入を置く。

「船」について

 この詩のダイナミックな認識は結構アイロニーを含んでいる。地球の乗っかる船などという発想はあまり目にするものではないので学習者もそこには食いつくだろうが、そのダイナミックな認識は、前提として現代社会のすったもんだが非常に矮小な次元の出来事であるという後半の記述と対応している。この二つを対応させて捉えるが故に、この詩のアイロニカルな内容が見えてくるのである。  また、出だしの「文明諸君」という投げかけも、語句の意味からして学習者には分かるような分からないような表現である。間違いなく学習者はこういった呼ばれ方をしたことがないので、ちょっと意味を押さえておかねばなるまい。

 「文明社会に生きる皆さん」にとっては、「地球の乗っかる船」等という発想は滑稽で実現できない考えである。「地球をさらう」も同様であろう。そこに詩人のおどけた姿が見え隠れするのだが、そういった突拍子もない投げかけも、現代社会のすったもんだから見れば割とまともなことに見えてくると読ませてもいいし、そういった滑稽な事を言わざるを得ないほど現代社会が深刻な状況にあり詩人はそれを非常に嘆いていると読ませてもよいだろう。いずれにせよ、単純な読みとりではこの詩の本質に迫ることはできない。表現の相関性や語句の意味の内包性に目を向けさせる必要がある。

「りんご」について

 抱えきれない気持を抱えているのは誰なのか。この問をどう読み解くかで林檎がメタファーなのかどうかという点が変化してくる。  私と読めば、林檎の内部にある凝縮された果実の存在に自己の内面を重ねて捉える詩と読み解けていく。日当たりに転がっている林檎のような私がそこにいる。  林檎と読めば、それはあくまで写実的な林檎、自分と同じような抱えきれない気持を内包した存在として表現しながら間接的に自己を描いた詩というふうに読み解けてくる。  いずれにせよ、林檎の内部は推測の域を出ない不可視な世界、それは自分の内面とて同様で、抱えきれない気持はあくまで感覚的に実感されるものであって目で見える形でこれといって明確に表現できるものではないのだろう。  もう少し深読みすれば、抱えきれないのだから、林檎の内部からあふれ出てしまっているような何か、が抱えきれない気持だという考え方もできるが、そこまで抽象的な理解を学習者に求めようとは思わない。

詩を贈る学習

 少しこの単元とは離れる感があるが、詩を贈る学習を何処かでさせておきたいといつも思っている。あまり学齢が低いとそういうことができないので6年生ぐらいがちょうどよいのだが、そういった学習を導くほどこれらの教材はメッセージ性があるわけではない、しかしながら、日常的な心の有り様が対象となっている点を考えるとこの二つの詩を出発点にしてもこういった学習は可能となる。  大切なのは、この詩を読んでどのように感じるかではなく、この詩をどのような人に贈るかとか、どういう気持の人がこの詩を読めば薬になるかという少し違った問いかけをすることであろう。