教材について
五年生の締めくくりの教材として読み応えのある教材となっている。これまでにいくつもの実践が重ねられているのでそういった実践記録からも学ぶことが多い。どの学年にも言えることだが、光村小学校の最後の教材はこれまでに学習したことを意識的に学習者が選択して学習を進めていくように提示されている。学び方の学習としては、目的と効果が実感できるように学習者が選択した学び方を効果的に学習過程の中に生かしていきたい。
五年生の締めくくりの教材として読み応えのある教材となっている。これまでにいくつもの実践が重ねられているのでそういった実践記録からも学ぶことが多い。どの学年にも言えることだが、光村小学校の最後の教材はこれまでに学習したことを意識的に学習者が選択して学習を進めていくように提示されている。学び方の学習としては、目的と効果が実感できるように学習者が選択した学び方を効果的に学習過程の中に生かしていきたい。
基本的な読解のラインとして大造じいさんと残雪の関係の推移を横軸に、いくつかの出来事を縦軸に整理していく必要があるが、考えさせるポイントを導くためには、この教材が大造じいさんの視点からしか描かれていないことを意識して、大造じいさんの残雪像の変化を捉えさせる発問を仕掛けていく方法が効果的だと思う。
最初はガンの頭領だとか、邪魔な敵だとかしか思っていなかった大造じいさんが、ハヤブサとの戦いやとらわれの身になった残雪の様子を見て残雪像を大きく変化させる所がポイントになるのだが、そのポイントの学習が深まりを見せるためにはそれまでの残雪像の推移を丁寧に捉えさせておく必要がある。五年生なのでプリント学習にして個人の読み解く力を発揮させるような学習を構想する。
大造じいさんと残雪の戦いの経緯はどのような意味を持っているのか。最後の大造じいさんのせりふに目を向けさせてそういったことを考えさせることでこの教材のまとめにしたいのだが、ふと思うと、大造じいさんは鉄砲を使ってガンを撃つ訳だから、卑怯も何もないのではないか?と言う意見が学習者から出てきたりする。それは確かにそうで大造じいさんの言う戦いはあくまで大造じいさんの考えるものであって客観的に見ると相当欺瞞に満ちている。
そんなことをいうと動物を捕らえて生業を立てている人たちのしていることは全くの卑怯なことになってしまう。狩りをするものが動物との戦いの中で感じるこういった一種の自己陶酔の感覚を否定的なものとして捉えさせないためにはどうすればよいのか? 六年生の教材海の命などでは、実際にクエを捕らえる方も命がけなので、些かこういった批判的な意見は出にくいのだが、捕らえた雁をおとりに使ってと言う記述などからどうしても大造じいさんは卑怯な存在に映ってしまう。
やはり、大造じいさんの人物像をはっきりと捉えさせる学習を入れておかないといけないように思う。つまり大造じいさんは狩で生活しているわけで、記述にはそういった切迫感はないけれども、やはり雁が捕れない場合非常に生活に困り、自分の命すら脅かされる可能性もあるという点を押さえるしかないのかもしれない。 この問題はこういった解決策でもやはり本当にそうなのかと疑ってかかってしまう点なので、逃げ隠れせずに学習者と考えたいのだが、難しい点である。
狩人は動物を殺す仕事だからあまり、動物を人格化しないものだと聞いたことがある。しかしものとして扱うにもそこに神様の贈り物だとか、山の恵みだとかいう感謝の気持ちを持っている。 残雪という名を付けて何年も戦い続ける大造じいさんは狩人としてはいささか日常を逸脱した関係を残雪と結んでいることになる。
なぜか?それはこの作品の話の展開をどの程度理解しているかを捉えるための発問としては適切だと考える。つまり大造じいさんの残雪への思いとは一体具体的にどのようなものであったのかというストレートな問以上に考える余地を残しているからである。 もちろんこの問は学習の終盤で行う問であるが、その答えは様々なものになると考えられる。私ならこの問で文章を書かせると思う。