教材について

 文章の構造が入れ子型の二重構造になっている点をどう扱うかが五年生にはポイントになるが、会話中心の文体から語りの文体へと変化しておばあさんの話の中に入っていく構造は物語文の特徴をよく表している。  おみつさんと大工さんのやりとりから、それぞれの考え方や生き方にまで導ければ読解学習としては成功だと考える。その結果とらえられた考え方や生き方をどのように扱うかは教師次第であろう。

入れ子型の構造をどう扱うか

 おみつさんが実はおばあさんで、大工さんはおじいさんであることがマサエにとってどのような意味を持つことなのか考えさせる価値はあると思う。雪下駄の実物を見せられる場面なども、学習者は色々なことを考える。特に女子児童は気に入った場面にあげる学習者も多く、ジェンダー的な感じを受けるときもある。  そういう種明かし的なおもしろさを感じる設定として捉えさせるのであれば、この入れ子型の構造も効果的に作品の特徴として位置付くだろう。  しかし、こちらがそういった時間のずらしを変に解釈してしまうと、「ものを大切にしよう」とか「心を込めてものを作る」と言ったことへの変な肩入れをしてしまい教訓として最後のまとめをする際に役立ててしまうことがある。これは注意したい学習の流れで、マサエがおじいさんやおばあさんを見る目が変わったというところまでで押さえておかないといけないように思う。やはりおばあさんのこういった昔話を聞いたマサエの心情に接近する方向性なら理解できるが、せっかく描き込まれている登場人物のやりとりを無視して、わらぐつの作品中での意味などを追い求めると教訓めいた締めくくりをせざるを得なくなる。

価値葛藤による学習

 この教材には「じょうぶである」ことと「見た目がよい」ことの二つの価値観の優劣を登場人物が判断している箇所がいくつかある。そこに目を向けて行くと、マサエとおばあさんの考え方の違いが顕在化することは言うまでもない。この点はこれまでの授業実践でも多く扱われてきたところであるし、こういった対立が「じょうぶである」ことへと収束していく道筋がストーリーと重なっているようにも思う。それ故にこの教材は入れ子型になっていると言ってもよい。  しかし実はこの対立する価値観は本当の意味で対立しているわけではないし、このまま「じょうぶであること」と「見た目がよいこと」のどちらが大切かと言うことを問うても、この教材を呼んだ学習者はみんな「じょうぶであること」を選択するように思う。これではせっかくの教材が訓話になってしまう。この少しずれた価値観を学習者の日常生活に返していくつもりならば、もっと現実的に考えさせるべきだろう。つまり、現在の商品化の流れから言って、「じょうぶである」ことは大前提で、「みためもよい」ことも求められている。これは言い換えると品質とデザインの関係なのであって、そこにハンドメイドがいいか既製品がよいかという判断は左右されない。つまり、「不格好」という表現が、見方を変えて「味がある」とか「渋い」、「同じものが他にはない」等という肯定的な価値観に捉え返される必要があるのである。

大工さんの人物像と愛情のライン

 大工さんはおじいさんであるので、話の前後に付いているエピソードの中にはマサエから見たおじいさんの姿が記述されている。おばあさんの昔話の中での大工のせりふは物づくりに携わるものとして優れた目を提示している。おみつはそういう発言からかっこうよさや偉さを感じる。このギャップをきちんと関係づけて、マサエのおじいさん像の変化へとつなげていく学習は作品を丁寧に読むためには必要となる。  次に、やや扱いにくいのが大工さんがわらぐつをたくさん買うのは、もともとおみつさんへの下心からではないかという読みが出てくるときである。それをごまかさず否定せずに、大工がおみつを好きになったのはなぜかと問い返しながら、おみつの作ったわらぐつからおみつの人間性を推測する大工の心をおさえていくべきであろう。そこで、好きになる順序が整理され最初から下心で等という学習者は退散することになる。