読解学習のポイントは、やはり会話文から登場人物の心情を読み解くことにある。誰が誰に向けて発した言葉かという点に加え、誰のどのような様子を見て発した言葉かということも考える観点として明確にしながら、作品の展開に沿って会話文から心情を読み取らせる。
意外にも母親や父親の発言からそこに含まれる心情を推論することは簡単で、むしろゆみ子の発言から、つまり「一つだけちょうだい」からゆみ子の心情を推論することの方が難しい。つまり、最も難しいのは学習者にゆみ子と同化した読みを形成させることなのである。
発問を打っても異化するだけなので、あまり分析的に進めすぎると同化できなくなってしまうだけだ。 そこでゆみ子の人物像を確定しながら、幼さや無垢さへと展開してしまうのだが、やはりわがままな姿に映ってしまうことを回避することはできない。
そこで私なんかはこの学習をあえてはずした展開をする。つまり「一つだけちょうだい」という表現からゆみ子の心情を推論させない。このことばを理解するプロセスには父親や母親がこのことばを聞いてどのように思ったのかという点を推論する学習だけ残していく。だから基本的にはゆみ子の人物像は確定せずに学習を進めていくことになるが、そうした学習過程を考えなければならないくらい現代の学習者からこの教材は離れてしまっていると思う。
最近上に挙げた課題で授業を締めくくる実践をいくつか目にした。これはこれで意味深い課題だと思うし、四年生だから半額州から集団討論やディベートまで展開するくらいクラスづくりができているかを試す試金石にもなる。 この課題の問題は、結論が出ないことにある。というよりか、教師の意図する方向性次第で結論が左右してしまうことにある。戦争教材として読ませる方向性だと、戦後の方がひもじい思いもしないでいいし空襲の音はミシンの音になっているし、父親のくれたコスモスはたくさん咲いているので、明らかにゆみ子は幸せになっていると学習者は結論づける。
これに対して家族の絆に目を向ける方向性で読解学習を行った場合には、一見幸せそうに見えるゆみ子だが実は自分をあれほど愛してくれた父親が居ないことが最も不幸なことだからやはり幸せではないという結論が出てくる。 理想的には、両者の間で討論ができればいいのだけれども、どちらかの読みを一人で形成できる学習者がいればいいが早々四年生ではいないと考える方がよい。教材の記述に従う読みを残す形で行くならば、後者の方を教師が提示して学習者と教師で意見の交流を行うこともできるが、教師の権力構造に巻き込まれてしまう年齢だけにイーブンでやりとりすることができるのは初任者のクラスくらいなものだ。 かつては父親の死について扱うことで締めくくっていたこの教材の学習も、テレビドラマに慣れている現代の学習者は血とやが死んでしまったことくらい容易に推論してくる。ゆえにこういった難しい課題で学習を締めくくるようになってくるのだが、話し合いやディベートの形を取らずに教師から後者を提示して深く考えさせるくらいでとめておくのがいいと思う。