教材について

 木村さんの詩は自己像をするどくそしてソフトに表現する詩が多い。少年期のナイーブな心の中から見た自分の姿を分かりやすいことばで表現してくれているのが、学習者にとってよいモデルとなる。  

 だから小難しい読解の授業はできるだけ避けて、詩を読むこと自体で認識を広げる機会にすればよいと思う。教科書ではこの教材はどちらかというと音読教材のような扱いになっているが、できればこの詩は声に出して読むよりもじっくりと黙読させたい詩である。

自分の位置は?

 前半の孤独を表現するかのような展開は、一見孤立した少年の孤独な真情を吐露するようにも読めるが、そうではなく、自己の独自性に目を向け始めた少年のとまどいのような気持ちの表れであるように捉えている。自分に意識を向けて、「ぼくって何者?」と問う時、同時に自分と同じ存在がこの世の中に一つとしてないことに気が付く。その時の驚きやとまどいはどのように少年の心の中で消化されていくのだろうか。そう考えると、この詩が示している考え方は一つの解決策である。ぼく=宇宙という考え方は、あくまで自己の独自性からくる孤独感を解消する一つの方向である。しかし、私自身はこういう考え方よりも、誰かにとってとても重要な自分として解消する方が孤独感を解消する方法としてはふさわしいようにも思う。そのあたりがジェンダーを感じる部分で、少年の男としての立ち位置みたいなものをきれいに描いているのだなあと感じてみたりする。  

 いずれにせよ、自分の独自性に目を向けたときに生じる孤独感に向き合えば、どうしても他の人との相対的な位置づけに没入してしまい、劣等感や優越感によって自己像が歪められてしまう。そういう時期を迎え始める四年生には是非とも出会わせておきたい詩の一つであろう。

存在の小ささに向き合う

 冒頭の二つの表現はクラスや学校の中での自己の独自性による孤独を表した表現であるが、その後の「地球上の~」は少し意味合いが違う。  

 地球上のかずにならないくらいのぼくとは一体どのようなぼくなのであろうか?それは、他者から認識される存在として存在していない自分のことを指しているのか、それともそこまでは考え詰めていなくて、単純に地球上の多くの人間の中の単なる一人であるという認識なのか、それとももっと単純に地球規模の大きさを前にして自分の小ささを認識した姿を表現しているのか、読みが分かれるところではあるが、以下に軽くこの詩を扱おうとも、この三つの自己認識の異なりや広がりはきちんと押さえておきたい。

ひとり、ぼく、ぜんぶ

 ぜんぶという表現がその前に示されている三つの自己認識を指していることは明らかであるが、その前におかれている「だけど」という接続詞に込められているぼくの思いに目を向けておきたいとも思う。あまりいろいろ手を入れすぎるとせっかくこの詩によって導かれている学習者自身の自己認識の芽がつみ取られてしまうような気はするのだが、先の項の整理する読みを扱わずにもう少し難しい表現に込められている思いを読み取る学習をおくとするならばこの「ぜんぶ」という表現から「だけど」に向かうラインをしく。