教材について

  1. 読み取った詩の内容を生かして、音読することができる。
  2. 詩人のキリンに対する視点を意識して詩を理解する。
  3. 基本的な詩の構成に関する知識を理解し、構成面の工夫を捉える。
  4. 「顔」という表現の意味と効果について理解する。
  5. 声に出して詩を読む事の楽しさを経験し、詩を音読する習慣を身につける。

音読指導として

  教材の配置の仕方から見ても、おそらくこの教材は音読指導を意識している。小学校三年生なので、表現されている言葉に目を向けた音読以上のことを学習として組織できるとよい。  一つは詩の構成面からリズムを作ったり、動きを感じたりして音読できるようにしたい。  また二つ目は、省略されていたり、改行されていたりする箇所に目を向けさせ、実際にどのくらいの間合いで読むのかを吟味する学習と同時並行して内容の理解を深めさせる学習を組織したい。  このくらいの長さの詩だと暗唱することも容易なので、最終的には何度も音読させる中で暗唱できるようになることを目標に据えてやるのもよいと思うが、折角暗唱させるのだから、この詩を学習していない他の学年に聞かせてみるとか、暗唱を他の人の前で行わせて詩を紹介する学習を構想するかもしれない。

構成面に目を向けて

 この詩は、4連構成でできている。1連目と4連目は、同じ表現で呼応している。こういった前後の呼応関係なども、詩の中のまとまり=連という知識も基本的に詩を理解しようとする際に必要な詩の構成面に関する知識なので、このあたりでお学習しておく必要があるだろう。  私などは、この前後の呼応を変化として読み取るのだが、それは詩人の視点の変化なのか、時間の変化なのか、それともキリンの動きなのか、意見は分かれるところだが、いずれにせよ、学習者もすぐに前後の呼応については目を向けるだろうから、そうした機会を捉えて、詩の構成に目を向けることをの重要さや意味を学習することにしたい。

「顔」という表現

 この詩を音読するにしても目で追うにしても、すごく気になるのは「顔」という表現だ。この表現がなければこの詩はつまらないものになってしまうことは分かるのだが、顔という表現の意味やいとまで考えると非常に難しくなってしまう。  しかしあえてこの詩を読解させる学習を何処かに位置づけようと思うとこの点は避けて通れない。  構成面からいえば、最初の顔は連として独立しているが、二つ目の顔という表現は、三連目の中に組み込まれている。  また内容面から見れば、最初の顔は「顔」としか表現されていないが、二つ目の顔は「首が押していくそらのなかの顔」である。こうした意味の変化にも目を向けさせる。  この二つのアプローチを発問などで仕掛けてもなかなか顔という表現の意味は読み解けてこない。  「きりんをごらん」と投げかけながら、詩人はキリンのどこに目を向けているのかという点をさらに加えると、「足」「顔」「くび」というパーツに目を向けている。それが詩の中でどのように結びつけられていくのかという点を押さえていくと読み解けてくるのは確かだ。  個人的な見解だが、まず目にはいるのは足、イメージ化すると長い足が目の前に二本か四本か見えている。目を移すので全く別のものとして顔がある。この時点ではキリンの足と顔は個々のパーツとしてしか認識されておらず、まだキリンの全体像は完成していない。  さらに「くびがおしていく」「そらのなかのかお」とくると、ぽっかり浮かんだような顔に長い首が付いてくる。でも、足と顔は全く別々のように見える。この認識が、顔という体言止めの表現を導いているのではないか、と考える。  視点の推移としては、単純に下から上へ、上から下へという移り変わりではないように思えるのだ。足と顔は一番下と一番上にあるからだ。キリンと聞いて、目を向けたくなるのはどこか、こんな発問もありかもしれない。おそらく学習者はキリンの最も特徴的なパーツは長い首なのだろうが、詩人はこの一般的な認識を避けている。長い足と空に浮かぶ顔、このキリン全体を見たときのアンバランスさをこういった詩にして表現しているように思えるのだ。