教材について

 二年生に読ませるには些か内容が重く感じるが、スーホの心情が深く描かれているので心情を捉える学習や推論する学習には適している。社会の中の不条理や死に関してもおそらく初めて触れる学習者にはよい学習の機会となるだろう。

不条理に向き合う

 社会的な不条理に向き合うスーホに同化して読んでいる学習者からはやりきれない反応が出てくることもある。スーホの人物像はそれほどに受動的で社会構造に対して屈服しているように見える。王様に仕打ちされ馬を奪われた上に馬を殺される。馬との関わりだけが彼を癒し立ち直らせる展開では、こういった社会の中の不条理に対して目を向けた学習者の感情を解消することはできない。  

 この点は結構実際の学習では消化されずにうやむやにされていることが多い点であるが、王様=改善されない悪として捉えることで解消される問題でもない。もう少し王様の人物像を描き込んでいれば、と思うのだがそうするとこの物語は小説になってしまう。  

 ただ一つだけ解消する方法があるとすれば、人々の受けとめかたと記憶に留めるという点に目を向けさせるしかないか。馬頭琴がなぜモンゴル中に広がったのか、馬頭琴の音がなぜ美しいのかという点を問うことで、スーホのような立場の人々がモンゴルには数多くいたことや、そういった人々が共有している悔しい思いが間接的に馬頭琴の音に投影されていることなどが読みとれるかもしれない。ここは難しいので説明になりがちだが・・・。しかし、今なお残る馬頭琴とその誕生にまつわるかなしい話とは別に当時の王様のことは誰も記憶に留めていないことが示されれば何とか解消の手だてが見えるのではないだろうか。  

死と向き合う

 二年生で死ぬということに向き合わせることはいくらどうぶつのしだからといっても重たく感じる。馬は王様から逃げて戻ってくるわけだが、スーホに看取られて死んでしまう。この死をスーホは消化することができず、ついに馬自身が夢でスーホを救い出すことになる。このあたりがファンタジックな伝承であることをにおわせるが、そこはさておき、死んだ馬を解体して馬頭琴を作成する。作成した馬頭琴を奏でることで死んだ馬を身近に感じるという解消の方法は日常生活の中ではそうあることではない特殊な解消の方法だ。愛犬が死んで首輪をいつまでも持っているのとは少し意味が違う。  

 だからこのスーホのとった行動に対して学習者に意見を求めてもよかったとすっきりした反応を示す学習者はそう居ない。そのもどかしさがこういった屈折した死の乗り越え方にあるとするならば、やはり死んだ馬の望みであるという意味付けで留めておく必要がある。

語句への詳細な接近とイメージ化

 この教材の学習では、内容面に重点を置いた学習を構想するのだけれども、随所にイメージ化の学習を仕掛けることができる。教科書などにも示されているが、比喩表現も大切だが、やはり語句に詳細に接近することで得られるイメージの深まりを実感させたい。「はねおきる」という表現は、「おきる」との相対化でイメージに深まりが生まれる。それが動作の追加なのかスピード感なのか、それともスーホの心情なのか、そのどれもなのだが学習者は結構子の相対化の中でイメージを多様に深めることができる。