教材について
長年にわたって掲載され続けている定番教材である。様々な実践が積み重ねられてきたが、なかなか授業が難しい教材であることに変わりはない。現在の学習者がどのような目でこの教材を読んでいくのか?どれほどの学習者が深く理解したり感動したりしてこの教材を学んでいくのか非常に疑問の残る所である。
長年にわたって掲載され続けている定番教材である。様々な実践が積み重ねられてきたが、なかなか授業が難しい教材であることに変わりはない。現在の学習者がどのような目でこの教材を読んでいくのか?どれほどの学習者が深く理解したり感動したりしてこの教材を学んでいくのか非常に疑問の残る所である。
この教材を理解する上で重要なことは、作者魯迅に関する情報と当時の中国に関する情報をどのくらい学習者に提示するかによる。中学校の教材なので教材の作者はなるべく触れずに学習を組織したいところだが、この教材はやはり魯迅のことに触れる機会を学習の早い時期で設ける必要があると考える。
つまり、「わたし」の目を通して描かれる当時の中国の格差社会の有り様を学習者がどのように読みとるかという点が読解学習のポイントであるとするならば、学習者が「わたし」にどれくらい理解を持っているかが重要な鍵となるのは一人称小説を読み解く際の基本的な方法だと思うからだ。無知で貧しい民衆を導いていこうとする私なのか魯迅なのか区別のつかない主体の目を通して描かれる前半のやりとりや出来事を捉えておかないと、自分の希望が何で、それがなぜ偶像崇拝だと思うのかについては読み解くことができないからだ。
普通に読んでいくとわたしと閨土の関係が時間軸上で変化している点は、学習者も目を向けるしその結果が私にとって非常に衝撃的である点も同様である。たしかに前半の出来事を整理していく上でこの時間軸上の変化は他の登場人物との関係の変化へと目を向けるきっかけになる。二十年前と現在とで大きく異なる関係は、実は二十年前からはっきりと存在していた関係であり、敢えて言うならば、私自身が変化しただけであって、閨土を初めとする他の登場人物は二十年前のままなのではないかと考える。
それゆえに、私の苦悩も深いものとなるし、それを当たり前の疑う術もない他の登場人物の無知さや貧しさへと意義付けが行える。しかし、それをわたしは閨土の変化として捉えてしまうところに、わたし像の読み取るポイントが存在している。この点から客観的に私を捉えるラインを導き出す読みとりの過程を学習に位置づけることによって、最後の述懐を客観的に分析できる視点を得るのではないか。
何度授業をしてもこの点は教材の中からは読ませられない。最初にも述べたが、当時の中国の状況などを持ち込ませてしまう。現代日本の格差社会は似ているようで異なるものであるから、そのままスライドして学習者に考えさせてもおかしな事になる。
魯迅がそうであったように、民衆の教化が先ず第一にあり、そして民衆の連携が第二にありと新しい生活に向けての具体的なイメージを描いていくと政治的な内容になってしまうので苦しくなる。あくまでそういった事を希望として持ちながらも、偶像崇拝であると自嘲してしまう閉じた主人公の姿にどう向き合わせればよいか。ものすごく内向的な感じを抱くのは私だけではなく学習者も同様で、なぜこれほどに悩まなければならないのかと言った反応が出てきてしまうと一層困る。だから覚悟を決めて当時の中国の状況を提示しながら、具体的に希望や新しい生活のイメージを持たせた上で「わたし」の最後の述懐に向き合わせたい。