教材について

 平和教材でもあるしルポルタージュでもあるこの教材は、様々な扱い方ができる教材だ。写真やグラフなどの非言語テクストもたくさん使われているのでそういったものと文章自体との関係を考えさせて行くことも可能だ。 ただ、三年間の教材の配置を考えたとき、ルポルタージュとして扱いながら、ジャーナリストという生き方や視点から社会とどのようにつながっていくのか、という点を理解させたいと思う。

ルポルータージュとして扱う

 ルポルタージュを読むことを学習者の読書生活の中に位置づけたいという思いは強い。激変する社会の中で確かな情報を収集していくためにはルポルタージュに触れていく必要性は高い。ましてや中学を卒業して高校生活に入る多くの中学生にとって、少しずつではあるが現在社会で何が起きているのかということをグローバルに知っておいて欲しいと願う。
 そうしたことから、この教材をルポの入り口にして読書指導をしておきたいとは思う。  それに加えて、ルポの迫力やルポを書いた筆者の思いや視点を深く理解し、ルポの持つリアルさを感じさせたいと思う。そうすると、背景となる知識をどう入れるか、つまり荒巻さんのこと、ジャーナリストという仕事のこと、カンボジア難民のことなど、本文を理解する上で必要とされるたくさんの教材外の情報をどこでどのように与えていくかということが授業をデザインする上でキーとなるポイントの一つとなる。
 こういった情報を調べ学習で入れさせることも考えるのだが、調べる必然性が今ひとつないまま調べさせると効果が上がらないので、やはり導入の段階か一読後に質問や疑問をあつめ、それに対応する形でこちらから提示する方がよいように思う。ルポのよさとして事実に密着する姿勢と社会へのメッセージ性を含む文章であることを、教材本文を読みながら意識させたい。つまり荒巻さんがなぜこの文章を書いたのかに始まり、なぜカンボジアに行ったのかというところまでフルに筆者を出して本文を理解させる手助けにしたい。

問いの意味

 そう考えてみると、例えば冒頭の「人は、いったい、他者に対してどこまで思いやりを持てる存在なのか?」ということに対する明確な答えは書かれていない。こういった問いかけこそがこの文章を書いた理由でもあるし社会へのメッセージでもあると捉えるところにルポというジャンルの読み方があるのだろう。
 つまり、提示されている問に対する答えは読み手に委ねられているのであって、ここに示されているカンボジア難民の子どもの例は、現代社会に存在する様々な事象の内の一つの例に過ぎないのである。だから学習者は自分の知っていることや経験したこと、調べたことなどをフルに用いながら荒巻さんの問いかけに答えていかなければならない。この点が文章表現の題材には適している。

平和教材として

 実際にカンボジアで取材し、様々な子どもたちとふれあって、考えたメッセージであるから、最後の言葉は重く感じる。戦争を経験したことのない子どもたちに戦争を考えることの難しさということはこれまでも指摘されているが、経験したことがないだけで世界は戦争で満ちていることはいうまでもない。日本人として考えれば先の大戦以来戦争を経験していないのは事実であるし、もしかするとかつてのようにおじいさんやおばあさんに聞いてみようという学習ももう不可能になっている。廣島長崎もモニュメントとしての意味合いが強くなり、知っているけど、それがどうしたのか、という反応も十分予想できる。
 ゆえに平和教材の方向性を見直し、現代社会の中で起きている戦争を扱いながら間接的に日本人としてどう考えるかということや、地球人としてどう考えるのかということに結びつけていくことにしたい。虐待やいじめの横行する現代日本社会の方が実は不幸な社会なのかもしれないということも私個人としては投げかけてみたい問ではあるのだが。