教材について

 ジーンズという物の中に、自分の思いや経験などを投影しつつ、ジーンズとの関わりがもう一人の自分を生み出し、自己内対話が進められていくという面白い詩だと思う。擬人化されたジーンズがあたかも元気のない自分に働きかけてくるような表現が数多く見られ、そういった表現の工夫と効果についても学ばせることが出来る教材だと思う。 こういうことをセルフエスティームの入り口にして、自分が自分を励ましたり支えたりする言葉を投げかけられる学習者に育ってほしいと願ったりする。

元気がないのはジーンズを干しているから

 たぶんここで登場する誰かは今元気がない。落ち込んでいるのか哀しいことがあったのかは分からないが、今ひとつ気分が乗らないのだろう。こう言うことは誰にでもあることなのだが、そういう状態をジーンズが洗濯されたことと同一に見立てていくものの見方は斬新な感じを与える。ジーンズを自分の心の薬として意識してみることもまた、斬新だ。こういう風に作品として提示されると何気なく感じはするが、実際にこういったものの見方をして自分を励ましたり、支えたりすることの出来る学習者は少ない。
 この教材は私ともう一人の私の間にジーンズを置いて、ジーンズを通して自己内対話が進められているという構造を持っている。それゆえに読解のターゲットもそうした構造を意識させることをまず第一におく。  気を付けたいのは、ジーンズを洗って干すという行為自体がもはやすでに繰り返されてきたこの登場人物が元気になるための薬であるということだ。日常生活の中にこういった自分に向き合うための準備のような物がある事はいいことだと思う。

あいつがじゃなくて

 現代詩の中には、言葉の斬新さで詩の独自性を出している物と、認識の斬新さで独自性を出している物があると思うのだが、この詩は後者に当たる。私なんかは、本来並べられることのない、誰かとジーンズとが並べて語られ、さらにジーンズが優先されてしまう表現にいささかとまどいを感じたりする。対人関係から物との関係へ移行してしまうのは一見、閉鎖的な自己没入のように思えたりするけれども、この詩はそうではなくてあくまで自己との対話を表現するものとしてとらえたい。しかし、ジーンズに投影されているのは、もう一人の私ではなく、どこかへ連れて行ってくれていた誰かなのかも知れない、とこのフレーズから感じたりする。そうするとそれは猛威亡くなってしまった誰かなのかと思ったりもして少し哀しくもなる。学習者はこの点をどう思うのだろうか、是非問いかけたいポイントである。  

瑠璃色が好きなジーンズ

  この教材を読んでいると、何かしら初夏の晴れた日を思い出す。それは、ジーンズを干すという行為に導かれているのか、教科書の背景に導かれているのか、それともジーンズの青に導かれているのか分からない。しかし詩を読む際にこういった言葉では説明できないような感覚的な印象をどのように学習の中に織り込んでいくか悩むことが多い。イメージとは又違うもっと複合的な詩の印象を大切にした読みとりを行わせたいと思う。そう考えたときに意外に重要となってくるのが色彩表現だ。
 色彩表現というと先にも挙げたジーンズの青、特に選択された後の色になるのだが、瑠璃色が好きなジーンズだという表現はこういった色彩表現とは異なる意味を有しているように思う。そもそも瑠璃色とはどんな色なのか?深い青色だというが、そういう色彩語としては群青色なども思い浮かぶ。瑠璃色とは古い色彩語だ。ジーンズの青さを瑠璃色と表現し、それがジーンズの好きな色であると表現するところに洗濯して少し色あせたジーンズが乾いてもとの深い青になることを待っているような感じを受ける。また自分と同系色の海や空の色を求めて出かけていくジーンズの姿を思い浮かべることも出来る。