教材について

  最初に出会う漢詩だからどのように出会わせていくかは考えるポイントである。漢詩の良さをどう味合わせればよいか、漢詩の価値を取り解させていくのかということは教師自身がじっくりと考えておきたい。  その上で、出来れば漢詩に描かれている世界を深く理解する学習が仕掛けられればいうことはない。三省堂は、春暁と黄鶴楼と春望の三つの詩が載せられているが、出来ればもう少し幅広く補助的に向き合わせることも考えてみたい。

春暁について

 五言絶句のこの詩は、人口に膾炙された詩で日本人の多くが知っている。改めてなぜ私たちがこの詩を知っているのかということを考えてみると、中学や高校の時に学んだからではない。冒頭の「春眠暁を覚えず」は一度で変換できるほど日常的に親しんでいるフレーズである。当然学習者も聞いたことはあるし、このフレーズが意味する感覚も生活の中で経験している。孟浩然を知らない人は多いけれども、このフレーズを知らない人はあまりいないのではないだろうか。いわば慣用句のような働きを日常生活ではしているこの出だしを使いながら、故事成語のように世界を広げていく読みとりの学習を展開したい。処処啼鳥を聞く以下の内容は学習者にはなじみが浅く初めてみる学習者も多い。 「春眠暁を覚えず」は知っていても、それ以降の表現を知らない学習者に、このフレーズの出所を示すとともに、春暁という詩の中でこのフレーズが持っている意味の深さを理解させることが必要だろう。

黄鶴楼について

 黄鶴楼は孟浩然つながりでもあるが、それはまず置いておいて、七言絶句であることに先の春暁と比較して目を向けさせ漢詩の形を提示する。三詩の読みとりが終わってから提示するよりも、知っていることを生かして春望を五言律詩であると捉えさせる方が身につけた知識を使ってみる機会を確保していくにはよいかもしれない。
 別離の情に接近させるのは中学校二年生ではいささか実感もわかないのだろうから、そこは題名読みなどで軽く押さえ、孤帆の遠影碧空に尽き、惟だ見る長江の天際に流るるをの解釈に没頭する。 船影が空に入り込んで見えなくなったり、それを流す長江は空の果てまで流れているように見えたりするには一体どのような空間的な広がりがあるのかという天に目を向ける。すっきりと書かれているがものすごい空間的広がりである。
 こんな景色は見たことがない。中国の雄大さとして実感させるには何か視覚的資料を使うしかないと思う。この空間的広がりが、李白の情感的世界の広がりなのだとは思うが、つまりそれほど別離の情が強いということを間接的に表現しているということなのだが、それ以上に実景としてこういった表現を捉えさせておく必要があるだろう。そしてその空間的な広がりがわずか一四字に凝縮されていることも併せて押さえておきたい。 個人的には煙花三月という表現も触れてみる。

春望について

  この詩の冒頭部分も人口に膾炙された慣用句として用いられている。この詩に来て初めて漢詩の表現技法を少し触れさせる機会を持ってもいいかなあと思う。 教科書にも書いているが、対句法によって導かれる自然と人間の対立構造、そこから止揚されて浮き上がる人間の生のはかなさを読みとらせることは、これから漢詩を学んでいく学習者にとって漢詩の読み方の一つとして学習させる必要がある。
 対句は漢詩の形式的な作法ではなく、対にして認識することによって導きかれる深い認識を表現するための技法であるから、そこに目を向けて読み解いていくことが重要だ。杜甫の詩は特に叙事的であり、事実認識の鋭さに優れているものが多いので、こういった代表的な詩で深い認識に目を向ける学習を行っておきたい。