そういう意味でいえば、筆者が文章の大半を割いて行う奇跡に対する科学的解釈はある種のむなしさをもって読むことが出来る。こうやって懸命に説明しながらも、それ以上の奇跡的な連鎖が文字を我々に残してくれているわけだから、この文章を説明文として扱えない理由も明らかだろう。
何気なく我々も伝言として文字を残す。メイルで送信するものもその大半は伝言めいた日常的なものである。列車事故の遺族が携帯電話を大切に持っている、そこに友人たちのメイルが重なっていくことが報道され、多くの人にえもいわれぬ感動を与えたように伝言には日常的であるが故に、飾らぬ思いがそこにある。 まして誰かを捜す、生死を求めて探す姿が凝縮されているならば、なおさら伝言として残された文字の重みは計り知れない。だから私は導入でこの伝言そのものに触れさせるところから始めたい。この文字から何を読むのかということを学習者に問うてみたいと思う。
思考や認識など人間の内面に触れるのではなく、人がどう生きたかを記す文章に出会わせるきっかけにしたい。読書指導へと展開するのならば、こういった教材を起点にしてルポルタージュを集めていきたいと思う。お説教ではなく平和教育を行うためにも、こういった事実を集積したい。最近広島の原爆投下から毎日捉えた航空写真の分析が行われ、二三日後にはすでに復旧の取組がなされ始めていることが明らかになった。これもテレビ番組であったが、こういった事実に向き合わせるには、本当は文章ではなく、映像がよいのかも知れない。ドキュメンタリー番組などを見る頻度が中学生は少ないと思う。学習材としてもっと扱う機会を増やそうと思うならばこうした教材と重ねていくしかないのかも知れない。