教材について

  この教材は基本的にルポルタージュなのだが、それ以上の迫力を持った文章になっている。その理由は筆者の感じたことが明確な言葉として表現されており、単に事実だけを述べているわけではないからだ。それは意見文であるという考え方よりも、ルポとして表現しようとしている内容の中に筆者が壁の文字に向き合ったり残された経緯に向き合ったりする姿を含み込んでいることを意味している。だから、これは事実を述べたルポとしてあくまでも扱いたい教材である。
 しかしそれは筆者と同じように誰もがこう言ったことに向き合わなければならないという意味でもないし、誰もがそう感じるということでもない。あくまで原爆の実態を現代を生きる筆者がどのように向き合ったのかということを事実として伝えている文章であると理解したい。

事実の重み

 創作世界からメッセージを受けとることは学習者には慣れたことで、かなり質の高い理解を示すことも多い。しかし事実と向き合ってそれほど質の高い理解を示すことはまれなように思う。これは逆転した認識力の形成を我々が行っていることを示している。学習者にはもっと事実に向き合わせその重みとともに深い認識をもてるように学習を組織したいと思う。
 説明文や意見文ではすでに加工され意見のついた事実がセットとして提示されるため、学習者は事実に向き合うのではなく、書き手の考えに向き合うこととなる。やはりルポをもっと教材化しなければという思いに駆られる。
 この教材に記されている袋町小学校の事実は、奇跡的な連鎖によって成り立っている。どれほど優れた作家が創作しても創作し得ない奇跡的なストーリーが事実として提示されているのである。この事実にどのように向き合うのかということが内容面での学習の焦点になる。筆者はこの奇跡的な連鎖を説明している。理屈から言えば確かにそうしたことが論理的科学的に実証されているように思える。しかし、壁が偶然にはがれたことやそれを発見したことはいくら科学的な見地をもってしても説明の付かない奇跡的な出来事であるといわざるを得ない。
 ルポルタージュを読むということはそういった科学的な説明を拒絶する人間の営みをただ事実として受け止め、そこに意味や価値を見いだしていく作業を行うことを意味している。だから、ルポの中でもこういった筆者の意見や考えが混ざった文章を最初に出会わせることでルポを読むことのレッスンを行わせる事が出来るのである。

文字の意味

 そういう意味でいえば、筆者が文章の大半を割いて行う奇跡に対する科学的解釈はある種のむなしさをもって読むことが出来る。こうやって懸命に説明しながらも、それ以上の奇跡的な連鎖が文字を我々に残してくれているわけだから、この文章を説明文として扱えない理由も明らかだろう。  

 何気なく我々も伝言として文字を残す。メイルで送信するものもその大半は伝言めいた日常的なものである。列車事故の遺族が携帯電話を大切に持っている、そこに友人たちのメイルが重なっていくことが報道され、多くの人にえもいわれぬ感動を与えたように伝言には日常的であるが故に、飾らぬ思いがそこにある。  まして誰かを捜す、生死を求めて探す姿が凝縮されているならば、なおさら伝言として残された文字の重みは計り知れない。だから私は導入でこの伝言そのものに触れさせるところから始めたい。この文字から何を読むのかということを学習者に問うてみたいと思う。

事実認識の重なり

  思考や認識など人間の内面に触れるのではなく、人がどう生きたかを記す文章に出会わせるきっかけにしたい。読書指導へと展開するのならば、こういった教材を起点にしてルポルタージュを集めていきたいと思う。お説教ではなく平和教育を行うためにも、こういった事実を集積したい。最近広島の原爆投下から毎日捉えた航空写真の分析が行われ、二三日後にはすでに復旧の取組がなされ始めていることが明らかになった。これもテレビ番組であったが、こういった事実に向き合わせるには、本当は文章ではなく、映像がよいのかも知れない。ドキュメンタリー番組などを見る頻度が中学生は少ないと思う。学習材としてもっと扱う機会を増やそうと思うならばこうした教材と重ねていくしかないのかも知れない。