教材について

  写実に徹している詩だけに、解釈が入り込む余地がないという点でどんな授業をしようかというよりも、どこを発問にしようかと悩ませる教材である。三好が大阿蘇の景色をどのように見て、何を感じたのかということを読みとらせながら、そこに詩人の認識なり心情なりを見いださせてみたいのだが、馬の様子と雨の様子と大阿蘇の全景がイメージできてもなかなか三好の心の中までは到達できそうにない。
 こういう教材の場合、読み手のモデルを出した授業などを考えたくなる。優れた読み手がこの詩をどのように読んでいるのかということに触れることで、この詩を読み解く手がかりを学習者に発見させたいと思うからだ。

蕭々と降る雨

 あくまで教材から行こうとするならば、切り口は「雨は蕭々と降っている」の「蕭々」にこだわる。蕭々と雨が降っているなどという認識は学習者の日常にはない。雨に向き合って様々な思いは抱くが、今日の雨は「蕭々とふっている」とは思ったことはないだろう。これは単純に言葉を知らないからではなくて、言葉を仮に知っていたとしても、実感をもって「蕭々」と言う言葉を使って認識することは出来ない。
 敢えてこの写実的な詩から三好の認識を抽出するならば、彼が大阿蘇に降る雨を「蕭々」と捉えたことを扱うしかない。「蕭々」とは教科書にも注が入っているように雨風が吹いて物寂しい様子なのだがこれを学習者に理解させるのに本当に苦労するのは確かだ。眼前の情景をイメージさせながら「雨は蕭々と降っている」と音読させる方法が考えられはするが、それがどこまで効果的かといわれると難しい。 

時間の流れ

 この詩には、時間の流れがない、というか時間が止まる感覚が表現されている。それは最後の「もしも百年が・・・」という表現にも現れているが、静かに雨の中にたたずむ馬たちの様子から時間の流れを感じさせない静寂を感じることは少々という雨の振り方よりは理解させやすい因果関係だと思う。

 視点は様々に変わるのだが、雨は蕭々と降り、馬は草をはむ。その動と静の対比が時間の流れを見失わせている。 そういう意味でいえば音もない。静寂という言葉を実景にして表現するとこういう風景になるのかと思ったりする。

単純な表現技法の理解で終わりたくない

  詩そのものの表現に向き合わせると、非常に単純なリフレインが目に付く。中学校二年生くらいならばその効果まで理解できるが、そうしたことだけに終わりたくはない。もっと奥深い詩人の認識にまで至りたい。しかしいかんせん難しすぎる。時間や音のない世界として表現されている世界を位置づけはするが、それ以上の理解にはなかなか到達しない。
 最初にも述べたが、三好のこの詩を解釈している文章に触れさせるしかないかも知れない。それと同時に三好の他の作品に触れさせる機会を設けながら、詩人三好達治自身の生涯などにも触れていく。教材の外側から攻めるようになるのだが、この教材の場合ある程度は仕方がないと思う。
 阿蘇の景色を実際に見たことがある学校の生徒ならまだ何とか経験から導いていけそうな気はするが、「中岳の頂から上がる噴煙」などのイメージも本当のことをいうと持たせにくいのではないか。