教材について

  鑑賞文のついた短歌が三つとオムニバスで構成される単元だが、当然扱い方が異なる。鑑賞文を書かせたいと思いながらもいつも感想文を書かせてしまう事に頭を悩ましていたのだが、やはり調べ学習を入れて、歌人のことについて少し知識を持たせておくだけでも違ってくるように思う。
 描かれている状況を再構成しながら、短歌の良さを説明する文体にもっていくためには、相互に紹介し合う学習をもってきてもよいように思う。そういったことをふまえて、この三つの鑑賞文の構成をじっくり理解させる。

子規の歌について

 子規の生涯をこのあたりで押さえておくことは文学史を学ぶ上でも必要なことだろう。他のどの歌も写実的でありながら死と向き合う子規の姿をリアルに感じさせてくれる。それゆえに、私なら、病床というところでとどめたりせずに、『病床六尺』や『仰臥万録』などを引用しながら歌人にしっかりと向き合わせる学習を構想する。
 特に限りある自分の命を自覚した歌人の言葉の鋭さは実感させたい。「今年ばかりの春」はそういった表現であろう。「今年限りの春」という解釈ではなく、「今年ばかり」の「ばかり」という言葉の持つ意味などにも迫ってみたい。  
 いちはつの花がイメージとして持ちにくいので写真などを使って学習者にはイメージ化させておく必要があるのだが、そういったことをのぞけば歌意は把握しやすい。文語調の歌末の表現も音読などでどのような感じをもっているか押さえさせる。
 内容理解のメインは、時間ということになろうか。鑑賞文には自然と自己の生命の時間を重ね合わせてと書かれているが、そうではなくて、行く春の瞬間を捉えて詩を詠むということが、彼の生命の流れの同じ瞬間と重なり合うのであろう。時間の流れの中のどういった瞬間を切り出してくるのかという点において短歌を理解する方法を学ばせておきたい。

寺山修司の歌について

 この歌は寺山らしさが比較的少ない歌だと思う。ニヒルさもクールさも表現上では現れていない。すごく単純に認識のずらしが表現されているだけなので、逆に深読みしてしまう。だから、学習の順序として、寺山の生涯や他の歌に向き合わせた後で、この歌を再構成させるのか、それとも架空の表現者の表現として描き出されている世界を再構成させるのかという問題があるが、私は後者を選択する。
 向日葵が少年のふる帽子に見えたという認識から、イメージを広げつつある一つのストーリーを再構成する事になるのだから、どうやっても自分の経験が入り込んでいかざるえない、それはこれまでに彼らが触れた様々な物語の中の一つなのかもしれないが、それでもやはり寺山自身を出して再構成させるよりは広がりのある鑑賞が進められると思う。
 歌の中にストーリーの破片を見つけだし、再構成していく作業を通して鑑賞文を書くことも鑑賞文を書くためには必要な方法であるといえる。

栗木京子の歌について

 現代短歌の要素が強い作品。構造的ではなく、言葉そのもののインパクトで勝負している。歌人の生涯と重ねるわけでもなく、ストーリーを再構築するわけでもなく、こういった歌はどうやって鑑賞を行うのだろうか、言葉のインパクトを説明するだけではもの足りず、かといって自分の経験を投入するにもこの内容では少し中学二年生には難しすぎる。
 恋の歌はやはり経験の乏しいものには難しいからあまり扱いたく無いなあと思いながらも、古今、新古今などの贈答歌などを学んでいくこととなる学習者にここで恋歌を扱わないわけにはいかないので、少し活動を考えてみる。
 「君には一日我には一生」という表現が時間をもって理解されることはないにしても、「いいなあ」という感じぐらいはもてる。現代の歌謡曲の中にもこういったフレーズで自分の恋心を表現したものはいくつもあるので、フレーズ探しと紹介などを行わせながら、恋愛感情を言葉に置き換えていくこと自体に向き合わせる。