教材について

  いつ、学習者が「死」という現実と向き合うのかということは、その子その子の家庭生活のありようであるが、ゲームやテレビなどで人の死が氾濫している現在、そういった重たい事実に向き合うことも低年齢化してきている。ゲームの中で人は死を迎えることと出会うのが最初であったりすることも多々あるのだろうと思うと教科書教材でももっと早い時期に人の死に向き合わせておかなければなどと考えてしまう。
 何だろうか、その重さみたいなものがこの教材を通して実感できればいいなあと思いつつ、この教材で教室を開いていく。しかしこの教材で扱われている内容すらも学習者個々人がいつか経験する身内の死に対してはその重さは全く違うのだろうけれどもそのときに感じる思いに対して少しでもクッションのように働く間接的な経験としてこの教材が彼らの心に残っていればいいなあと思ったりする。

父親の視点から見た世界

 二年生になると、視点を生かした推論が読みの中で出来てほしい。この教材は、父親の視点で描かれているのでシホの心情はおおよそ父親の視点をフィルターにして描かれている。それゆえにそのフィルターを取り払って推論していくことが求められる。
 潜在的な話者が語る客観的な心情世界と違い、父親という具体的な存在から見た世界をどのように調整しながら理解していくのか、という点が学習の基盤になる。父親には父親の思いがあり、そういった思いを通してシホの心情が推論できるといい。 

死とは異なるもの

 雑木林のおばあさんは死んでいない。それ故にこの教材の内容は違った重みを持っている。雑木林で話をしていた頃のおばあさん、手袋を渡そうとしたおばあさん、とは異なるおばあさんにシホは向き合うわけであるが、こういう「痴呆」と向き合うということは小学校六年生の少女には非常に難しいことだろう。そのおばあさんにシホは会わない。その代わりに雑木林に向かう。この行動をシホの心情と併せてどのように読むのか、という点が最後に学習者と考えたいテーマになる。
 シホはなぜおばあさんに会わなかったのかという点を考えていくためには、修道女はなぜシホを止めたのかとか、語り手である父親はどうさせたいと願ったのかといった副次的なデテイルを理解させながら厚みのある思考を促したい。
 祖父の死と対峙する構成になっていることは学習者も読んだら理解できるのだが、それをどのように位置づけて教材の理解へと生かしていけばよいかは難しいところだ。「会えなくなる」ことと「会うことが出来なくなること」との違いとでもいおうか、肉体的な死と精神的な死とでもいうべきなのか、それぞれの状態をどのような言葉で対置するかにもよるが、少なくともどちらも何か大きな喪失感をもってシホに襲いかかってくる出来事だけに、その喪失感の違いを考えさせたい。
 自分のことが誰だか分からなくなっても命がある状態を「死」とは異なるものとしてどのように理解させるのか、重要な学習課題である。

祖父の死がもたらしたもの

 ストーリーを追う上で、考えさせたい課題として挙げられるのが、「祖父の死に直面したシホはなぜおばあさんに会いに行かなくなったのか」という点がある。この点を考えるためには、シホの様子を見ている父親の記述に頼るしかない。「自然だった」という記述はそれほど多くを語るものではないが、それを見落として勝手に推論させるべきではない。
 私ならここで、祖父とシホとの関わり、おばあさんとシホとの関わりを図式化して整理する学習を置く。その後共通性や差異性を明らかにしつつ、改めてこの課題に向かい合わせる展開をとる。そうすると、シホの恐れのようなものが浮かび上がってくるのかも知れない。親しく交流のあった祖父の死は、同じように親しく交流しつつあるおばあさんの死を連想させる。親しかったからこそ痛くつらい別れがあるのだとしたら、そうした交流を避けることでその痛みを避けられるという発想も幼いシホにはわいてくるように思われてならない。この点は、あくまで学習者がどのように考えるのかに任せたいところではあるが、私が用意するとしたらそのくらいの答えになる。