教材について

  読書教材として扱われているこの教材をそのまま読書教材として扱う場合も多いと思われるが、ここでは、この教材を読解学習に用いる場合を想定して、解説を進めることとする。  

 仮に読書教材として用いる場合には、本編の小説教材との重ね読みや比べ読みに用いる場合と、この教材を出発点にしていくつかのテーマで広がりを持たせた読書指導へと展開することが考えられるが、中学校一年生の小説教材として、ある程度のファンタジー性をもった教材だけにそのラインで広げていくことが考えられる。また賢治作品であることから、宮沢賢治の他の作品へと広げていくことも考えられるが、小学校でも扱っている作家だけにいささか学習者にとって魅力に欠けるかも知れない。

現実と非現実の狭間にあるもの

 現実と非現実が入れ子型に配置されているこの教材は、「風がどうと吹いてきて・・・」という表現によって仕切られている。風が吹くことが現実と非現実の狭間に置かれていることの意味は様々な解釈を見るのだが、それよりも、こういった表現によって仕切られていることを学習者が発見し、作品構成へと意識を向けるきっかけにすることが、学習の早い段階でなされることは意味あることのように思う。
 この教材で語られるファンタジーの部分は、明らかに非現実的な内容であるが、それに妙なリアリズムを持たせる働きをこの構成はもっている。現実から非現実に入り込み再び現実に戻ってくる構成が複数交叉すると非常に技巧的な小説ということになるのだろうが、そういった世界の描かれ方はデスノートなど漫画や映画の世界にあふれているので案外こういう構成の効果に関しては学習者の理解も得やすいのではないか。しかしそれが非常に単純に配置されているこの教材に対しては単純な印象を持つ学習者もいるだろう。
 しかし、教材の内容が比較的幼い印象を与えるのに対して、現代社会にも通じるアイロニカルな内容に向き合わせていく学習の方向性を構想するならば、敢えてこういった書き手の工夫に目を向けながら作品を外側から読み込ませることをねらいたい。

人物形象について

 二人の若い紳士が成金で、浪費型であることは比較的容易に理解できる。あえて学習者の読みを深めるならばその根拠となる記述をしっかり押さえさせる学習を置くか置かないかということになる。犬が泡を吹いて駄目になってもお金に換算する発想や山猫にだまされていくプロセスでの安直な発想、まるで世の中は自分の都合のよいように展開するものだと信じているかのような姿から、二人の人物像を導き出すのは基本的なライン。賢治の作品は細部に工夫が施されているので、山鳥を買って帰るところやもののように扱った犬に救われる所などにも目を向けさせたい。最終的には、二人の顔だけは元に戻らなかったという記述にしっかり向き合わせることをねらう。
 次に、山猫だが、この存在は、二人の紳士と対局の自然界の驚異という設定ではない。むしろ、俗物的で自己の欲望に支配された感が強く、どちらかといえば二人の紳士に近い存在である。ゆえに両者の関係を対比的に捉えて話の展開をおうような対話の設定に惑わされると読みが浅くなってしまう。
 かといってどちらが悪どいかとかどちらがだまされるかといった対決する関係でもなくなかなか微妙な位置づけとして山猫が描かれているので、山猫の位置づけが非常に難しい。あえてその位置を言葉にしていくとすると、人間社会と自然界の類似性の象徴とする。つまり、汚れた人間社会と無垢な自然界、といった対比的な関係ではなく、自然界にも人間社会と同様の悪意があり、欺瞞があり、欲望に支配された存在があるのではないか、という発想がこの作品にはあるということである。それが全くの自然界ではないファンタジックな世界として描き出されている理由なのであろう。

プチ・ブルの哀しさ

 二人の紳士の人物形象をもう少し細かく追うと、この二人が本当にブルジョア階級の人間ではないことに気がつく。西洋料理店に入り様々な注文に対応していく彼らは、このおかしな注文にだまされ続けていく姿からもそれは伺えるのだが、それ以上に彼らが知ったかぶる姿からこう言ったことを推論することができる。どうしてこんなに単純なのかという疑問は作品を読み進めていく中でいらだちのように感じるところだが、それはたんに無知な人物像として捉えるのではなく、中途半端なブルジョア階級の知ったかぶりによって引き起こされる一種の悲劇として読みとることもできる。
 賢治の生きた時代は、こうした新興のブルジョア階級が数多く対当してきた時代なのかなあと考えを巡らせながら、どこか哀しい感じを覚えてしまう。本当に西洋料理店に行き慣れたものならこういった注文にはだまされないのにと思うと、単純に二人の紳士が注意深くなくてと、人格的な要因に還元した解釈を施すことにとまどいを覚える。