小説教材は、人物像を多角的な視点から描くので、人物にリアリティーが増す。視点から考えてみると、キキ像は語り手の視点に依拠するところが多く、団長やピエロ、おばあさんの視点から見えてくるキキ像はいまいち弱く間接的だ。そう考えると、学習者の視点を語り手の視点に重ねていくことで、表現されていないキキ像を追わせる展開が必要になってくる。これが一つ目の手段であり、読み方として教えておきたいところ。
二つ目は、会話。さっき間接的と言ったが、それは、他の登場人物との会話を通して、キキの人物像が描かれていると思うから。キキの発言を追うことが必要となってくるのだが、発言の追い方に工夫がいる。人物関係を押さえてからでないと読み解けないからだ。
ピエロとの会話にこういう一節がある。
「四回宙返りなんて無理さ。人間にできることじゃないよ。」
「でも、だれかが、三回宙返りを始めたら、わたしの人気は落ちてしまうよ。」
「いいじゃないか。人気なんか落ちたって死にやしない。ブランコから落ちたら死ぬんだよ。いっそピエロにおなり。ピエロなら、どこからも落ちやしない。」
「人気が落ちるということは、きっと寂しいことだと思うよ。お客さんに拍手してもらえないくらいなら、わたしは死んだほうがいい・・・・。」
いうまでもなく、ピエロはキキと対照的な人物として登場している。命より大切なものはないと思っているからだ。キキはそういったピエロの考えに触れて自分の考え方を自覚する。命よりも大切なものがあるということに。そういう見方をすればピエロはリアルな人物として描き切れていない。非常に典型的で理念的な存在だ。会話だけを追えば、キキを死なせたきっかけを作っているのはピエロであることに気がつく。ロロはいったいどのくらいの年齢なのだろうかと考え込む。後半部分に見られるキキからロロへの発話が敬語であることから、ロロはキキの先輩に当たるのだろうが、それならば、この発話はあまりに相手のことを考えない自分勝手な発話であるといえる。何故なら、キキはピエロにはならないし、なれないからだ。
このやりとりにおけるキキの発話が、キキ自身の考え方を自覚させるきっかけになっていることを捕らえさせることが非常に重要な読み解きに当たるのだが、そのためにはロロの人物像や二人の関係をきちんと押さえなくてはならない。
これと同様の関係がおばあさんとの関係でもある。キキはもともと命よりも大切なものを持っている存在だ。二人の人物は異なってはいるが、そういうキキの潜在的な考え方を顕在化する関わりを持っているにすぎない。だから、おばあさんを悪く思う学習者は読みが浅い。
おばあさんやピピの存在が偶然キキの命を失わせてしまったのではない。キキが元々潜在的にそういう考え方を持っていたのだ。ゆえにこの話は非常に悲しい。
命よりも大切なものがあると考えることをキキはいつ持ったのだろうか?そういう問いにいつか分からないし誰から与えられた考えかも分からないと答えざるを得ない。そういうものだからだ。それはキキの中に潜在的に眠っていたものであるが、所在も原因も自覚できない。これを運命ととらえることもできるし、そうでないともいえる。しかしながら、現実にわたしたちも、そういったなにやら所在や原因の分からぬものに縛られて生きているのは確かなことだ。
非常に個人的な考え方なのかも知れないが、この作品を扱うたびに思うことがある。それは、キキ自身が自分の存在をどういう風にとらえていたのかということだ。「空中ブランコ乗りのキキ」とはもちろんキキの本質ではない。社会的存在としてのキキである。それは、多くの他者の目を通した自己存在であって、自分自身が自分自身として自覚する自己ではない。しかし、自分って何者?という問いは自分で解くには難しい問いだ。自分の目を通して自分をとらえることは極めて難しい。故に人は他者の目を自己化して自分をとらえる。
名声や地位を得ると、「自分の目を通してとらえた自己」と「他者の目に映る自己」に矛盾が生じてくることが多い。そしてその矛盾を解消するために後者に傾斜してしまう。作られた自己を追い求め、それが本当の自分だと思い込むようにしなければ自分自身が維持できなくなってしまうからだ。
キキはまだ幼い。しかし、空中ブランコ乗りとして周囲に期待され注目されることによって「空中ブランコ乗りのキキ」であろうとする意識が非常に強い。それが維持できなくなったと木の自己喪失感は計り知れない。しかし実際にはそういうことを何度も乗り越えて人は生きていかなければならない。
私は発展学習で、失敗したキキのその後を書かせることが多い。この問題を学習者と一緒に考えておきたいからだ。