教材について

 回想する文体で描かれているこの教材は、大人になった現在の私と子どもの頃の私との二重の視点で物語られている。そのことを意識しながらも、子どもらしいいたずら心や好奇心がアイスキャンデー売りとのやりとりの中で人の痛みに触れ、一つ成長する姿が描かれている。
 私は直接の当事者ではない、やや傍観者的な視点に立ちながらも、当時は食べられなかったアイスキャンデーの味を思う。なぜ、食べておけばよかったと振り返るのか?その問いに答えていくことがこの教材の理解に必要なことと思われる。

主要な課題として考えられること

  冒頭にも述べたが、この文章は現在の私の視点を主とした回想である。それ故に作品の深い理解へと迫る学習課題も、現在の私の視点に沿ったものに設定したい。
 おおよそ、アイスキャンデー売りが「幽霊になって、会いに来てくれるといいんだけどね」という発言を受け手の立場から読みとらせ、彼女の心の奥にある深い痛みに向き合わせる学習の展開を組織したくなるのだが、ここはむしろそうではなく、「なぜ、現在の私は腹をこわしてもいいからアイスキャンデーを食べておけばよかった、と振り返るのか」という課題にする。
 なぜ当時のアイスキャンデーの味を推測して、そこに執着するのかという問いは、作品の展開から推測して、そのアイスキャンデーが何か特別なものであるということを前提としている。もちろんそれは、アイスキャンデー売りが心の痛みを抱えながら、戦争でなくなった三人の子どもに食べさせるつもりで作ったアイスキャンデーだからである。

敢えて典型化する試み

 物語文に読み慣れた中学一年生が、これから徐々に小説の読解へと進んでいくことを考えると、その準備として、「視点」について着目し多角的に描き出された人物像を理解する学習を仕掛けたいが、この教材ではそこまで人物が描き込まれているわけではない。
 そこでもう一つ「典型化」する認識の方法を学ばせることで、これから触れていく小説群を自分のこととして引き受けて考える事が出来るように育てていくこととする。 それでは、この教材を典型化するポイントはどこか?当然、第一にアイスキャンデー売りの女性を典型化のポイントとし、戦争で子供を失った母親の心の痛みとして考えさせることが挙げられる。  
 もう一つは、大人になった作者を典型化のポイントとし、人の心の痛みに寄り添おうとする作者の心のあり方を考えさせることが考えられる。
 いずれにせよ、この教材のテーマが「戦争」に関するものであるが、直接戦争の悲惨さや、残酷さを描いたものでないところが、一般的に使用されている平和教材とは異なる点である。ものすごく単純で短い話の中にぎゅっと凝縮されて詰め込まれている人間の心の痛みとそれに寄り添おうとする作者の心の温かさに学習者を向き合わせることで、これまでとは異なるアプローチで平和について考えさせる機会を創造したい。

失われた時間を推論することで

この短い話には、失われた時間が存在している。それは戦争によって自分の子供を失ったアイスキャンデー売りが、アイスキャンデーを売るに至るまでの時間である。なぜ彼女はこうやってアイスキャンデーを売っているのか?という問いは学習者にも響くだろう。それは、単純に生きていくためではないように思われる。元々アイスキャンデー売りなのではなく、敢えてアイスキャンデー売りを選んだ理由は何か?という問いも効果的だ。
 ここからは学習者の推論に任せていく部分になるのだが、自分の子供を失ってしまった母親がどれぐらいの時間度のようなことを考えれば、子どもたちと接するアイスキャンデー売りとして毎日を過ごすことが出来るのか?それは私にも深く心に突き刺さる問いであるが、それゆえに敢えてアイスキャンデー売るとなることを選んだのだとしたら、それは彼女にとっての癒しなどという生やさしいことではないように思える。

サイドストーリーを書く学習

 サイドストーリーが映画になる時代だ。湾岸警察署はよほどに多くのサイドストーリーを抱えながら本編を展開していたのだと驚く。 かつて私はメロスでサイドストーリーを書かせる学習を仕掛けたことがある。これは、セリヌンティウスや王から見たメロスの人物像を捉えさせるためのものであった。 この教材の場合にもやはりサイドストーリーを書かせてみたいのだが、その目的は先の項で述べたアイスキャンデー売りがアイスキャンデーを売るに至る経緯と時間を学習者に意識させるためである。 死んでしまった子どもたちがアイスキャンデーが好きだったからとか、アイスキャンデーを食べさせてやれなかったことを母親は後悔しているとか、彼女がこの仕事をするに至った理由は様々に推論できるし、サイドストーリーを書くことで、彼女の心の痛み日本教材とは違った角度で迫っていくことが出来るからである。