教材について

  読書教材として提示されているが、単に鴎外の作品や近代小説への入り口として読ませるだけに終わるにはもったいない教材だ。全体の時間配分の中で現状ではなかなか深い読解学習を構想しにくいのだが、やるとなればとことんやりたい教材である。 安楽死というテーマについては石橋忍月の文章なども合わせて読んでおきたいと思うのだが、それ以上に喜助の人物像や心情の読みとりを基盤にして、人の行き方に大きな影響を与える人の境遇なるものを考えさせたり、貧困の生活が人間にいかなる影響を及ぼすかなどといったことも考えさせてみたい。

安楽死について

 安楽死の問題をどのように扱うか、一つは鴎外の人生などと結んで医師である鴎外の提示する医学上の問題へと誘うことが考えられる。この問題は、現在にも尚根強く残っており、高齢化社会の中でより問題が深刻化している。新聞報道などでも事件としてこの問題は様々に伝えられており、そういった社会を見る機会にすると共に中学生などはぴんとこないかもしれないが人間が生きている以上は、以下に死を迎えるか、また両親の死を以下に見送るかなどと行った、生き死にの問題としてとして考えさせることもできよう。  しかし、あまり中学生に死について考えさせることが快く思わないのならば、医師と患者、家族の問題として安楽死の問題を客観的に扱わせることもできる。リビングウィルなど、安楽死ではなく尊厳死として捉えさせてみることや、尊厳死協会のHPなどから尊厳死という考え方がでてきた経緯やその定義などに触れさせることもできよう。こうなればもう情報戦になる。

罪について考える

 安楽死の問題として考えさせるのが困難な場合、喜助の行為に接近させる学習を構想する。喜助の行為をどのように判断するのか、という問題は当時の奉行書の判断が作中にあり、そういう判断に疑問を呈する鴎外の判断が重ねられているので、選択肢としてはすでに二つ提示されているところから出発できる。しかし鴎外の判断は今ひとつ言葉にされているところが少なく、学習者が作品を読み解きながら補わなければしっかりとした考えとならない。  
 かつて教材として取られていた「最後の一句」等にも同様のアプローチが可能なので、短編でもあるし比べ読みさせてみるかもしれない。 殺人か兄弟愛かという判断の違いとして学習者が矛盾を感じてくれれば、あとは庄兵衛の視点を追いながら、鴎外の抱いた疑問へと接近していくことで読解学習の道筋が見えてくる。余談ではあるが、罪があるという判断を下す学習者には追いの発問を打ち、ではどのようにしてその罪は贖われるのかと言うことを聞いてみたい。

読書指導として

 中学校三年生で、近代小説の短編でメジャーな作家の物を置ければなあと思う。それはこの時期以降高校時代にかけてこういった作品群に触れて欲しいと願うからだ。願うだけではなかなか読まないので、もう少し踏み込んだ学習活動として近代小説を読む活動をおいておきたい。教科書の読書案内では現代小説の紹介が為されているが、できれば近代小説群の中から読み応えのある短編をいくつかプリントして読ませるくらいはしてみてもいいかなあと思う。
 そういう意味では中学校ではあまり見なくなったが、学級文庫をおくために学年団で国語科の教師を中心にして読書会を開いたりしている学校もある。他の教科の先生が好んで読んでいる本なども知る機会となるのでとても楽しい。ただ教員間で読書会を開くほどの時間的ゆとりのある学校は非常に少ないのだが、こういった時間の方が教員研修としては有効性が高いと思う。