学習者の年齢から考えても、幼いマキに同化できるものはおそらくいない。この教材では、人物像をどのようにとらえるかということをしっかりと学ばせたいので、小学校の時のように安易に同化させたくない。人物像を客観的、多角的にとらえることが、中学校においてこれから読んでいく小説でも必要な能力だと考えられるし、実生活における人物眼を形成していく上でも重要なことだと思う。そういう意味では、主人公が学習者に同化しにくい教材が適切だと言える。
「マキの行為をどう考えるか?」を起点に分析的に読み進めていく学習も構想できるし、「兄たち」の視点からこのストーリーをなぞり直す展開も面白いかも知れない。ただ、先程から述べているように、安易に同化させたくないので、兄たちの視点にも同化させたくはない。兄たちの行為や考え方も客観的にとらえていかなければ、マキとの関係を考えていくときに変に偏ってしまうからだ。 この時期の学習者はまだ、ストーリーを追っていく読みに偏っている場合が多い。要するにストーリーをきちんと追えれば作品を理解したと考えてしまう学習者だ。しかし、そういう読みをしている限り、人物像は常に典型化されてしまうため、「カモメの命」をめぐって、善悪の人物としてマキと兄たちをとらえてしまう。マキノ立場を全肯定する読みや、兄たちの行為に非常に批判的な読みが生じてきた場合、どのような問いを持って彼らの読みを深めていくかが大きな読解のポイントになる。
ゆえに、多角的な人物像の把握が自然な学習として組織されていなければならない。マキの行為に対して、無鉄砲さや甘さを指摘する声が教室の中に出てくること、 兄たちの行為に対する評価が生まれてくることが重要であろう。
象徴的な表現を読み解く学習は、小学校から積み重ねてきているものであるから、ここでは本当に完成期に当たる扱いになる。 実際には「カモメー麦わら帽子ーマキ」という三者の間接的な関係を読み解く作業が前提となって、「麦わら帽子」の象徴性が読み解かれていく。どのような命でもそれを維持するもしくは救うための犠牲を必要とする。犠牲の象徴としての麦わら帽子と読み解いていくのが妥当なラインだと思うが、マキ自身は怖い思いはするが、損なわれてはいない。誰かを救うために拳銃で撃たれた主人公が、胸の中のバッジで救われてハッピーエンドなんていうエピソードにも似た柔らかさがある。これがマキは溺死し、帽子に乗っかったカモメだけが助けられたという話だったらと思うとぞっとするが、そうではない。カモメの命を救おうとする幼いマキの行為は、行為そのものとしては非常に険しいチャレンジである。そこにつきまとう自分の命を懸けるということを幼いが故にマキは考えてはいない。その甘さのようなものを包み込み結果的には得意げに町を歩くマキの姿としてハッピーエンドを迎えることができるのは麦わら帽子の働きによる。 これは全くの偶然の産物かも知れないが、それがこの教材の暖かさなのだと思う。
年齢差かジェンダーか微妙なところだが、兄たちの存在は、狩るものであり、見捨てるものであり、大人びたものである。麦わら帽子をかぶったマキは少し大人びて見えるようだが全く純粋な幼さをもっている。 古来、日本人は潜在的に狩猟する存在を余りよく見ない傾向がある。ウニを取りに行くんだから余計なものに目をくれず、自分の命とのやりとりをしなければならない事件には関与せず、という判断は全くの悪意ではない。しかしながらまぶしくて見ることができないのはなぜか?という問いには、マキの行為に対する書き手の称賛と、兄たちの自らの行為に対する後ろめたさのようなものが見えてくる。微妙なのは、マキを残してきたことが後ろめたいのか、カモメの命を救わなかったことが後ろめたいのか、マキのような行為がとれなくなってしまっている自分たちの姿が後ろめたいのか? そういった兄たちのすがたを大人の姿としてとらえさせるのか、狩りに夢中になる男の姿として読ませるのか、全く兄たちの性格が悪意あるものだという風に読ませるのか、悩むところである。いずれにせよこのポイントは学習者に書かせることになるので、最後に交流し会ってまとめて考えていく際のまとめる観点として上に記したようなポイントは意識しておきたいとは思う。 今の中学一年生はこの辺のことをどう考えるんだろうか?授業してみたい。