教材について

 兄たちに助けられたマキは、一言も口をきこうとせず、兄たちも一言も口がきけない。しかしそこでは、多くのことが語られ、多くの思いがあふれている。  我々国語教師は、何でもかんでもことばにすることがいいことであるかのように思い込んでいる。そういう我々に対する一つの警告かも知れない。  知らず知らずのうちに学習者にもそういう考え方が植え付けられているとしたら、こういう場面に触れることで「表現する」ということがいったいどういうことなのか、表現の中での言葉の働きとは何なのかということについて考えさせるいい機会になるのではないだろうか。

犠牲とうしろめたさ

  「いのち」についてどのように考えるのかということを抽象的に考えると、「大切なものである」というしかない。これが、「自分の命」についてどうかと問われると、「自分の命よりも大切なものがあるかどうか」とか「他のものの命とどちらを優先するのか」という問題が生じてくる。  小学校の物語文のように典型化された人物が出てくる世界だとこの問題も比較的単純化されてとらえることができるが、中学生の教材としては、「カモメの命を粗末に扱う兄たち」と「命を救うマキ」という単純な人物構成は適応しない。  兄たちの判断はまっとうなものであるし、マキの無鉄砲さにも目を向けさせなければならない。しかしそういうところに目を向けさせつつも、純粋なマキの心と大切な麦わら帽子を犠牲にして守ったカモメの命の尊さ、兄たちの後ろめたさに対する理解も深めたい。  中学段階の文学教材の学習の入り口として主題は深く扱いたい。

マキに同化できるか?

 学習者の年齢から考えても、幼いマキに同化できるものはおそらくいない。この教材では、人物像をどのようにとらえるかということをしっかりと学ばせたいので、小学校の時のように安易に同化させたくない。人物像を客観的、多角的にとらえることが、中学校においてこれから読んでいく小説でも必要な能力だと考えられるし、実生活における人物眼を形成していく上でも重要なことだと思う。そういう意味では、主人公が学習者に同化しにくい教材が適切だと言える。  

 「マキの行為をどう考えるか?」を起点に分析的に読み進めていく学習も構想できるし、「兄たち」の視点からこのストーリーをなぞり直す展開も面白いかも知れない。ただ、先程から述べているように、安易に同化させたくないので、兄たちの視点にも同化させたくはない。兄たちの行為や考え方も客観的にとらえていかなければ、マキとの関係を考えていくときに変に偏ってしまうからだ。  この時期の学習者はまだ、ストーリーを追っていく読みに偏っている場合が多い。要するにストーリーをきちんと追えれば作品を理解したと考えてしまう学習者だ。しかし、そういう読みをしている限り、人物像は常に典型化されてしまうため、「カモメの命」をめぐって、善悪の人物としてマキと兄たちをとらえてしまう。マキノ立場を全肯定する読みや、兄たちの行為に非常に批判的な読みが生じてきた場合、どのような問いを持って彼らの読みを深めていくかが大きな読解のポイントになる。  

 ゆえに、多角的な人物像の把握が自然な学習として組織されていなければならない。マキの行為に対して、無鉄砲さや甘さを指摘する声が教室の中に出てくること、 兄たちの行為に対する評価が生まれてくることが重要であろう。

「麦わら帽子」とは何であるか?

 象徴的な表現を読み解く学習は、小学校から積み重ねてきているものであるから、ここでは本当に完成期に当たる扱いになる。  実際には「カモメー麦わら帽子ーマキ」という三者の間接的な関係を読み解く作業が前提となって、「麦わら帽子」の象徴性が読み解かれていく。どのような命でもそれを維持するもしくは救うための犠牲を必要とする。犠牲の象徴としての麦わら帽子と読み解いていくのが妥当なラインだと思うが、マキ自身は怖い思いはするが、損なわれてはいない。誰かを救うために拳銃で撃たれた主人公が、胸の中のバッジで救われてハッピーエンドなんていうエピソードにも似た柔らかさがある。これがマキは溺死し、帽子に乗っかったカモメだけが助けられたという話だったらと思うとぞっとするが、そうではない。カモメの命を救おうとする幼いマキの行為は、行為そのものとしては非常に険しいチャレンジである。そこにつきまとう自分の命を懸けるということを幼いが故にマキは考えてはいない。その甘さのようなものを包み込み結果的には得意げに町を歩くマキの姿としてハッピーエンドを迎えることができるのは麦わら帽子の働きによる。  これは全くの偶然の産物かも知れないが、それがこの教材の暖かさなのだと思う。

兄たちの存在と意味

 年齢差かジェンダーか微妙なところだが、兄たちの存在は、狩るものであり、見捨てるものであり、大人びたものである。麦わら帽子をかぶったマキは少し大人びて見えるようだが全く純粋な幼さをもっている。  古来、日本人は潜在的に狩猟する存在を余りよく見ない傾向がある。ウニを取りに行くんだから余計なものに目をくれず、自分の命とのやりとりをしなければならない事件には関与せず、という判断は全くの悪意ではない。しかしながらまぶしくて見ることができないのはなぜか?という問いには、マキの行為に対する書き手の称賛と、兄たちの自らの行為に対する後ろめたさのようなものが見えてくる。微妙なのは、マキを残してきたことが後ろめたいのか、カモメの命を救わなかったことが後ろめたいのか、マキのような行為がとれなくなってしまっている自分たちの姿が後ろめたいのか?  そういった兄たちのすがたを大人の姿としてとらえさせるのか、狩りに夢中になる男の姿として読ませるのか、全く兄たちの性格が悪意あるものだという風に読ませるのか、悩むところである。いずれにせよこのポイントは学習者に書かせることになるので、最後に交流し会ってまとめて考えていく際のまとめる観点として上に記したようなポイントは意識しておきたいとは思う。  今の中学一年生はこの辺のことをどう考えるんだろうか?授業してみたい。

よい課題とは

 この作品を再読させるための課題の中で、最も分かりやすいのは、事件後にマキはあんちゃに何が言いたかったのか、という課題になるだろう。この問いを読み解くのはかなり難しい。恐らく即答できる学習者はそういないであろう。ゆえに出発点の課題としては適している。  

この課題を読み解くには、

  1. あんちゃとマキそれぞれの行動の推移を整理すること。
  2. マキの言いたい言葉=ぐっしょりぬれた麦わら帽子を抱きしめるか細い腕
  3. あんちゃ=口がきけず、マキ=口をきかずの違いを考える
  4. あんちゃ=まぶしくてみることができない、マキ=得意だった、の違いを読み解く。

 の四つの点を必要としている。 ゆえに、この教材のほぼ大部分はこの課題によって触れることが出来る。 さらに、この課題はなかなか言葉に出来ない課題なので、話し合わせてからそれぞれにワークシートに書かせ、全体で話し合うような展開を構想する。

白いカモメ

 ストーリーの中で「カモメ」の役割を押さえることも大事なことだ。完全な人物ではないが、この話を支える主要な登場人物として位置づいている。  カモメは、助けられる存在ではあるが、後半マキを助ける存在でもある。それ以上に、事件を通してマキを成長させる存在であるし、あんちゃを責める存在でもある。  カモメは人になつくのかどうか知らないが、最終的には、マキと帽子とカモメは一体化した姿として描かれる。マキと帽子、マキとカモメ、それぞれの関わりの推移が、マキをどのように変えていくかという視点でも作品を読み返しさせてみたい。