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草野心平は、明治36(1903)年5月12日、福島県の上小川村(現・いわき市小川町)に五人兄弟の次男として生まれました。家庭の事情により、兄弟のうち心平だけは祖父母に預けられて育ちました。兄・民平、弟・天平も詩を書いています。幼い頃から大変わんぱくで、本を食いちぎり、鉛筆をかじり、誰かれとなく人に噛みつく〈野生児〉の激しさをもった、ひどくの癇の強い子供だったといいます。4歳年上の兄・民平、母・トメヨ、9歳年上の姉・綾子が相次いで亡くなったのは、心平が13歳になる年のことでした。地元の小学校から県立磐城中学校へ進学、16歳で上京するときまで、心平はこの上小川村に暮らしました。大正8(1919)年上京し、翌年、慶応義塾普通
部へ編入した心平でしたが、いつしか海外への夢がふくらみ、昼は英語、夜は北京語を学ぶようになりました。心平は、大正10年に中国の嶺南大学(現・中山大学)に留学します。心平の青春は、留学先の広東(現・広州)で花開きました。
16歳で夭折した兄・民平の残した3冊のノートに書いてあった詩に触発され、心平は中国で詩を書き始めるようになります。同級生たちから、〈機関銃〉と呼ばれるほど、たくさんの詩をつくりました。初の詩集『廃園の喇叭』は、亡兄との共著詩集で、帰省中に母校小川小学校の謄写
版を借りて印刷しました。
留学中には同人誌「銅鑼」を創刊、これを携えて心平は帰国しました。中国から帰国した心平の20代は、放浪と貧困の連続でした。10回以上の引っ越しと、新聞記者、屋台の焼鳥屋、出版社の校正係など、さまざまな職業を経験しています。昭和3(1928)年、25歳で結婚。前橋での新婚時代は、新聞紙が卓袱台代わりで、食べるものにも事欠くという貧窮ぶりでした。初の活版印刷での詩集『第百階級』が世に出たのは同じ年のことです。まもなく、各行末に句点(。)を打つ心平独特のスタイルも確立されました。
同人誌の存続にも力を注ぎ、晩年の宮沢賢治との文通
、高村光太郎や萩原朔太郎など先輩詩人との親交などを通し、詩人としての世界も広がっていきます。30代に入って間もなく、心平は帝都日日新聞の編集部に定職を得ましたが、相変わらず貧乏と引っ越しが続きました。詩誌「歴程」は、昭和10年に創刊されました。昭和8年に亡くなった宮沢賢治の遺稿も掲載されています。心平は、賢治の没後、その作品の紹介に力を尽くしています。創作意欲はますます盛んで、『母岩』『蛙』『絶景』『富士山』『大白道』の詩集を出し、成熟度を増していきました。
日本が次第に戦時体制に入っていったころ、大学の同窓生で南京政府宣伝部部長だった林柏生に誘われ、同政府宣伝部顧問として、心平は再び激動の中国へ渡ります。戦争が終わるまで6年ほど南京に暮らしました。中国から引き上げた心平は、郷里上小川村で2年あまりを過ごします。生活は苦しく、貸本屋「天山」は8か月で閉店。東京に居を移してからは居酒屋「火の車」を開業し、心平風メニューの数々をつくりました。「歴程」の復活とともに、講演会や朗読会も多くなります。詩作活動も活発で、詩集『日本沙漠』『牡丹圏』『定本蛙』を立て続けに出版します。昭和24年には第1回読売文学賞を受賞しました。心平は、このころから日本文芸家協会の理事を務めています。昭和41年には、川内村(福島県)の名誉村民の褒賞として建てられた天山文庫が完成し、心平は一年のうち数か月をそこで過ごすようになりました。各賞の選考委員や講演旅行で心平は忙しく、また、日本ペンクラブ理事や日本現代詩人会会長などを務め、海外へ赴くことも多くなりました。60代の心平は、10数年ぶりに新詩集『第四の蛙』『マンモスの牙』や、棟方志功の板画による詩画集『富士山』も出版されました。60歳にして心平はようやく東村山に自分の家を持ちました。野菜や草花を育て、犬や魚や鳥を飼い、果
実酒や漬物をつくります。しかし、その頃から身体の不調が始まり、網膜剥離のために、心平の右眼の視力は弱まりました。妻のやまをはじめ、筑摩書房創業者の古田晁、板画家の棟方志功、詩人の村野四郎・辻一など、親しい友人らも相次いで先立ち、70代の心平は葬儀の世話や「歴程」追悼号の編集で、忙しい日々が続きました。心平自身も、胃潰瘍、疲労、骨折と、入退院を繰り返しました。しかし、創作活動は衰えることなく、晩年の13年間には、12冊の年次詩集を刊行し、そのエネルギーは驚嘆されました。昭和53年には『草野心平全集』の刊行も始まりました。いわき市名誉市民、日本芸術院会員、文化功労者のほか、昭和62年には文化勲章を受けました。昭和63年(1988)11月12日、心平は85歳の生涯を終えました。(いわき市立草野心平記念館より) |
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