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松尾芭蕉(まつおばしょう)1644〜1694
伊賀上野(現:三重県上野市赤坂町)の下級武士松尾与左衛門の次男として生を受ける。幼名金作、長じて甚七郎または忠左衛門。兄姉が一人ずつ、妹が三人の六人兄弟。元来、松尾家は伊賀国柘植郡に代々住した平家末流の土豪、柘植七族の支流である。父は伊賀藤堂家の無足人として伊賀上野に来住、手習師匠などを生業としていた。若き日を藤堂良忠に仕える。良忠は北村季吟の教えを受ける俳人であり、そこから俳諧への目を開いていったと思われる。処女発句集『貝おほひ』では、宗房と号している。良忠が25歳の若さで死去すると、その位牌等を高野山に納めた後主家を去り京都に出る。29歳の時に江戸に下り、桃青(とうせい)と号し、日本橋の鯉屋仙風宅に身を寄せた。伊賀上野の芭蕉が江戸に下ったのは一説に、京阪神には北村季吟など有力俳匠が沢山おり、新人の割り込む余地が少なかったためという。当時の江戸は有力俳人がほとんどおらず、いわば新興開拓地であった。少数の門人達の資金援助はあったにせよ、事実殆ど無名の俳匠では知名度も低く、特に最初の3〜4年間は最もひどい状態であったようである。門人の松村市兵衛(普請方役人)の世話で小石川の水道工事事務(帳面付)をしたり、俳人高野幽山の句文の清書などのアルバイトで口を糊したという。苦境の中でも俳匠としての努力を怠ることはなかった。結果、延宝2年に、当時随一の北村季吟に認められ「埋木」の相伝秘伝を伝授された。これは宗匠の免許認定書を得たことである。江戸に帰って間もなく、剃髪し宗房入道、桃青などと改号している。37歳の時、当時辺鄙な地であった深川に庵を結ぶが翌々年(天和2年)に草庵は江戸大火のため類焼、門人で秋元藩家老高山伝衛門を頼り、甲斐の国に約半年間滞在する。因に芭蕉の号はこの年に初めて用いたという。天和3年5月に江戸に帰り、一時船場町に仮住まいしたが、門人達52名の勧進で旧庵近くに第二次芭蕉庵が新築された。芭蕉40歳の頃だという。41歳、母の一周忌の墓参を兼ね、東海道から伊勢、郷里伊賀上野を経て関西方面を廻った旅を『野ざらし紀行(甲子吟行)』と題し纏める。その後44歳では『鹿島紀行』『笈の小文』、45歳に『更科紀行』、45歳で『奥の細道』と旅を続ける。『奥の細道』紀行を終えた後の元禄5年5月、深川の杉風所有地に新しい庵を結ぶ(第三次芭蕉庵)。47歳の時、近江の国石山の幻住庵に入り『幻住庵の記』を著す。翌年には京都嵯峨にある去来の別荘に滞在し、その時の日記が『嵯峨日記』である。51歳を迎えた5月、九州を目指して旅に出るが、大阪で病に罹り10月12日申の刻(午後4時頃)、花屋仁左衛門方でその生涯を閉じた。遺言により、遺骨は近江粟津の湖畔にある義仲寺に葬られる。(三重県HPより) |
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